越中国分寺跡

伏木一宮1丁目1−44

天平13年(741)聖武天皇の発願により、国家の安穏を祈願して、国毎に僧寺(国分寺)、尼寺造立の詔勅が宣布され、全国に建設が進められた。

詔勅には、国分寺の位置については「必ず好処を選ぶべし」として、明確な基準は示されていないが、諸国の遺跡の実際から、国府の近くで、交通の便が良く、南の開けた高燥の地に建てられたものが多い。

越中国分寺は、昭和11年高岡市伏木一宮地内で、奈良時代後期に属する国分堂式の単弁蓮花文系軒丸瓦(鐙瓦)と唐草文系軒平瓦、平瓦、丸瓦、土師器、鉄製扉鋲などが発掘されたことから、同地薬師堂(現在国分寺)付近と推定された。ここは、国衙跡と推定される勝興寺に近く、標高20mの台地上にあり、造営に相応しい地である。

昭和41年に薬師堂境内の発掘調査が実施され、明確な遺構は検出できなかったけれども、金堂または講堂の遺構と推定される版築手法の土壇と、その残欠の上に、正しく南北、東西の方向に配列された数個の根石がはっけんされた。また、堂の20m程南東の墓地あたりが塔跡と推定されている。堂の前庭中央から、南に延びる参道の一部と考えられる細い道があり、昔からこれを国分道と呼んでいる。

越中国分寺の創建年代について明確にする資料は存在しないが、万葉集に、天平20年(748)越中守家持が「先の国師従僧清見」のために送別の宴を催し、天平勝宝2年(750)4月、家持が布勢水海に遊んだ時の一行の中に「講師僧恵行」の名が見える。国師、講師は国分寺の最高位の僧職名である。、しかし、国師名は国分寺以前からあったので速断は出来ないが、天平20年には、越中国分寺が成立していたと考えられる。

(出典 : 高岡の文化財 … 高岡市教育委員会)