二、松川周辺

 

 水の都『富山』を象徴する川のひとつ松川。春には川べりの桜が素晴らしく、夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色と見応えがあります。例年4月から9月まで、定期的に遊覧船が運航され、松川に架かる7橋を巡ることができますよ。
桜橋
富山藩10代藩主・前田利保が隠居所に千歳御殿を建て、そこにたくさんの桜を植えたことが命名の由来。親柱が石造りで、重厚な存在感とアーチ型のシルエットが美しく、国の登録有形文化財に指定されている。

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華明橋

桜木町が華やかで、ぼんぼりの明るい歓楽街となったことから命名。人が通行すると滝廉太郎の「荒城の月」や本居長世の「七つの子」などが10分間流れる。

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塩倉橋

かつて、この辺りには、富山藩の塩が納められた倉が建てられていた。なお、現在の塩倉橋のたもとには旧塩倉橋の橋台がある。

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七十二峰橋

欄干にステンドグラスがはめ込まれた七十二峰橋。昔、立山連峰がシナ5岳の衝山七十二峰になぞらえて立山七十二峰と呼ばれていたことが橋の名前の由来となった。

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安住橋

平成10年4月に供用開始されたガラス高欄の橋(意匠担当=富山ガラス工房)。パネルは、三層構造の合わせガラスとなっており、上から、オパールガラス(空)・高透過強化ガラスを破砕(立山連峰)・ブルーガラス(富山湾)で、両外側の高透過強化ガラスの表面には雲・霞が表現されている。太陽光線の具合で、さまざまな色調の変化をみせる。

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舟橋

慶長元年(1596)から明治15年まで64隻の舟で橋が架けられていた場所。現在の橋は平成元年に架け替えられた。

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木町の浜

昔の神通川(現・松川)といたち川が合流する現在の本町一帯は昔「木町の浜」と呼ばれ、神通川を川流しされた木材が陸揚げされた舟運の要地になっていた。また、桜橋の近くに、神通川で水死した人々を供養するため、延享3(1746)年に建立された万霊塔がある。

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ガス燈

華明橋のたもとに立つガス燈。文明開化とともに生まれたガス燈は、富山市では大正2年にこの地で点燈された。その明かりは松川の水面に映えて多くの市民を魅了したという。現在のガス燈は昭和63年11月に再現して立てられたものである。

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松村外次郎の『慈悲光』

明治34年、現在の庄川町に生まれる。県立工芸学校(現・高岡工芸高校)を経て東京美術学校を卒業。22歳で院展に初入選。富山駅前にある渡辺義和との共同制作「平和群像」は代表作の一つ。

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翁久允像

明治21年、現在の立山町に生まれる。明治40年に渡米。家庭労働やボーイなどをしながら現地の邦字新聞に排日移民法施行時のアメリカにおける日本人移民の生活を描いた移民文学を発表。大正12年に帰国して「週刊朝日」の編集長となる。昭和10年郷里に帰り、郷土研究誌「高志人」を創刊、昭和48年まで398号刊行した。釈迦・不動・観音の真・正・愛の三尊運動を提唱。

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石坂豊一像

明治7年、現在の滑川市に生まれる。大正13年の総選挙で衆議院議員に初当選。落選中の昭和19年に富山市長に迎えられ、2年8ヶ月在職した。この間、昭和20年の富山大空襲による戦災処理や戦後復興に尽力した。昭和22年から参議院議員2期12年務め、昭和33年、国会議員在職25年の憲政功労者として表彰を受ける。

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滝廉太郎像

荒城の月で有名な日本を代表する作曲家の一人。父親が富山県書記官(現在の副知事職)に任命されたため、明治19年から同21年までの約2年間を富山で過ごした。当時の富山城は現在の城址公園より遥かに広く、城内にあった尋常師範学校附属小学校に通っていたといわれる。

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横江嘉純の『愛こそ平和の母なれ』

わが国の彫刻界の重鎮で戦後は日展審査員や参事などを務めた。明治20年、現在の八尾町に生まれる。東京美術学校(現東京芸大)を卒業。帝展特選「望洋」など初期の作風は力強い男性像が中心で、後には慈愛に満ちた女性像や母子像などを好んで制作した。代表作には、東京駅中央口の「愛」、東京目黒公会堂の「愛こそ平和の母なれ」などがある。平成14年に横江氏の作品を常設展示する「八尾町美術保存展示館」がオープンした。

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北村西望の『花吹雪』

わが国を代表する彫刻家の一人。明治17年長崎県生まれ。東京美術学校(現東京芸大)を首席で卒業。国会議事堂内の「板垣退助翁像」(昭和13年)、長崎市からの依頼により制作にとりかかり、昭和30年に除幕した「平和祈念像」は西望の代表作の一つである。昭和33年に文化勲章を受章。


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