「商工とやま」H15年12月号
特別寄稿

佐々成政は「郷土の英雄」

〜授業における子供たちの変化〜
富山市立光陽小学校  六年担任 舟崎 充


 富山市立光陽小学校(高木義和校長)では、六年生の社会科授業の一つとして、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と同時代の戦国武将で、五年間富山を治めた「佐々成政」を取り上げました。
 つきましては、六年担任の舟崎充先生に授業を終えての感想と子供たちの反応についてご寄稿いただきましたのでご紹介します。


子供と一緒に“成政”を学ぶ

 私が、「佐々成政」に関心をもち、学級の子供たちとともに学習をしようと思った直接のきっかけは、昨年のNHK大河ドラマ「利家とまつ」でした。
 それまでも成政については、その伝説や武将としての評価等を伝え聞いていましたが、このドラマを見てその人物像に大変興味を魅かれました。
 そこで、成政に関する本を何冊か読んでみたところ、それまで自分が漠然と抱いていたイメージが大きく変わり、ぜひこの成政を社会科の歴史学習で取り上げ、子供たちとともにその生き方について考えてみたいと思うようになったのです。


郷土を見つめなおす機会に

 小学校六年生の社会科では、日本史を学びますが、ここ数年は歴史上の主要な人物に焦点をあてながら、その時代毎の特色を認識させるようになっています。
 ただ、そこで扱われる人物で、郷土に縁のある人物は、残念ながら少ないのが現状です。
 学級の子供たちが最も興味をもつ戦国時代でも、信長・秀吉・家康といった三人の武将を中心にそれぞれの業績とその天下統一までの過程をたどるのが主とする内容です。
 それだけに、幾多の武将が覇を競った戦国時代に、富山に関係ある「佐々成政」という武将が活躍していたのだと知ることは、子供たちにとって自分たちの郷土を改めて見つめ直す良い機会になると考えました。


子供たちが考えた「疑問」

 この学習を始めるにあたって、子供たちに「佐々成政」という武将を知っているかたずねてみた結果は、
 ・よく知らない20人
 ・名前は知っている11人
 ・伝説を聞いた3人
というものでした。「利家とまつ」などのドラマを通して、少しずつ知られてきたのでは、と言うこちらの期待も空しく、子供たちには、成政はまだまだ未知の存在のようでした。
 そこで少しでも成政についての基礎知識を持たないと、その人物像について考えることもできないと悩んでいたところ、ホームページ上で富山商工会議所が成政について情報を発信していることを知りました。
 連絡をさせていただくと、成政の生涯その史跡等について、まとめたパネルがあるとのことで、お借りすることができないかとお願いしたところ、快く貸してくださいました。
 学習は、このパネルにパンフレットも参考にしながら、成政の生涯を年代順に考えていきました。その時に年表を見て、子供たちが考えた疑問は、大きく分けて次の三つになりました。
疑問一 ・成政は、愛知県生まれの人なのにどうして富山県で有名なのだろう。
疑問二 ・あれほど信長には忠誠を誓った成政が、秀吉とは対立した理由は何だろう。
疑問三 ・成政が命の危険を冒してまで冬の立山越えを果たしたのはなぜだろう。


成政の見方が大きく変わる

 これらの問題について調べ、考えていきながら子供たちは、成政とその時代について理解を深めていきました。
 初めは、成政といっても鍬崎山の埋蔵金伝説や厳冬の北アルプス“さらさら越え”の話などに関心をもっていた子供たちも、成政が富山の民衆のために行った治水事業や伝染病の流行を防ぐために神社で祈願した話などを知り、その見方が大きく変わったようです。


子供たちから活発な意見

 「疑問二」について話し合ったときは「成政は、自分と同じ信長の家来だった秀吉が自分の上に立つことが許せなかったからだ」とか「成政は、何よりも織田家に忠義の気持ちを抱いていたから秀吉ではなく、信長の息子が後を継ぐべきだと考えたからだ」、「娘が人質になっていたので、成政も迷っていたのだけれど、ここがいちかばちかの勝負のときだと思って秀吉に反抗したのでは」等々活発な意見が出ました。
 その学習の最後の方で「成政は、結局秀吉に降伏し、最期は、肥後の国人一揆の責めをとらされて切腹してしまうけれど、最期まで自分の考えを変えずに織田家に忠誠を貫いたところはすごいと思う」という成政の生き方を評価する意見も聞かれました。
 ある子は「どんなことがあっても自分の考え方を変えなかった成政は、ある意味よい人生を送ったと思う。成政は、きっと満足して死んだのではないかな」とも話していました。


成政は「郷土の英雄」

 短い学習ではありましたが、子供たちにとって未知の存在であった成政が、確実に自分たちに近い人物として、親しみをもてるようになったことを喜びたいと思います。
 これまでの学習で調べたことを新聞の形にまとめたとき、一人の子は、このような感想を書きました。
「成政は、織田家への忠誠が強かったから、次々に大変なことがあって、とても悩むことが多かったんじゃないかなと思った。でも、自分の考えを貫き通したのはすごい、というみんなの考えを聞いているうちに、私もそうなのかなと思うようになった。『早百合伝説』などから考えると、成政は、とてもひどい人のように思えるけれど、富山の人のために治水工事を行ったことなどを考えると、とてもよい人に思えました。」
 この学習の終わりのアンケートで「成政は、郷土の英雄だと思いますか」という問いに「はい」と答えた子供たちは、34人中31人でした。

“佐々成政”略譜
●1536年(天文5年)[成政1歳] 1月15日、成宗(盛政)の第五子として尾張比良に生まれる。
●1549年(天文18年)[成政14歳] 織田信長の小姓となる。
●1558年(永禄1年)[成政23歳] 信長より鉄砲隊の組織づくりを命ぜられる(佐々鉄砲隊の誕生)。
●1560年(永禄3年)[成政25歳] 長兄・政次、桶狭間の戦いで信長の先陣を務めて討ち死にしたため、家督を継いで比良城主となる。信長の馬廻り役。
●1561年(永禄4年)[成政26歳] 信長の命で墨俣築城(秀吉、佐々濠、佐々土居を利用して墨俣築城)。
●1567年(永禄10年)[成政32歳] 信長の黒母衣衆筆頭となる。(永禄5年、12年という説もあり)
●1568年(永禄11年)[成政33歳] 信長に上洛をすすめる。
●1570年(元亀1年)[成政35歳] 佐々鉄砲隊、二段打ち戦法で活躍。姉川合戦。金ケ崎退却で秀吉の危急を救う。近代的集団、銃撃戦術の確立。
●1572年(元亀3年)[成政37歳] 浅井氏との戦いの最中、虎御前山砦を築き、見事な塁と高く評価される。
●1574年(天正2年)[成政39歳] 信長に諌言し、政務を論じあう。
●1575年(天正3年)[成政40歳] 長篠の戦いで鉄砲奉行として活躍。越前府中2郡を与えられ(府中三人衆)、小丸城主となる。(五万石、三万三千石説あり)
●1580年(天正8年)[成政45歳] 信長より越中での合戦の指揮を命ぜられる。常願寺川や神通川、いたち川の治水事業にあたる。織田家のなかで「八角将」の地位。
●1581年(天文9年)[成政46歳] 信長より越中新川、礪波の両郡(三十六万石)を与えられる。
●1582年(天正10年)[成政47歳] 富山城主・神保長住が越中を去り、成政、名実ともに越中一国を支配。魚津城陥落。明智光秀の急襲により、信長、本能寺で自害。
●1583年(天正11年)[成政48歳] 柴田勝家、賎ケ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れ、北ノ庄城で自害。成政、秀吉より越中守護の朱印状を受け、越中一国の領主となる。仁尾 ●1584年(天正12年)[成政49歳] 織田信雄、徳川家康の要請を受け、徳川方に味方。前田利家と対立、能登の末森城を攻める。さらさら越え。
●1585年(天正13年)[成政50歳] 秀吉の成政征討によって富山城にこもるが、秀吉に降伏。新川郡(二十万石)を与えられる。天正大地震。
●1587年(天正15年)[成政52歳] 秀吉の九州征討に従い、豊後、日向、大隈へ。秀吉より肥後国主(四十五万石)に任ぜられる。肥後の国人らが一揆を起こすが、平定。
●1588年(天正16年)[成政53歳] 肥後の国人一揆を秀吉に責められ、切腹の沙汰。摂津・尼ケ崎の法園寺で切腹する。


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