「商工とやま」H16年4月号

誌上講演会「YEGフェア2003セミナー」

“喜多方ラーメン”の仕掛け人の一人が語る「まちづくり」の秘訣

福島県地域づくりネットワーク21会長 山口和之氏


 たかだか喜多方ラーメンとおっしゃいますが、家内に「家3軒建てる分ぐらい金使ったべ」と怒られる程、私たちが喜多方ラーメンを世に出すまでに、大変な努力がありました。


■観光産業への転換

 「喜多方ラーメン」は、喜多方市が、過去、企業城下町時代に遭遇した大変な経済危機に際して、今後は観光産業で生きていこうと考え、大企業依存、政治家依存、行政依存の三つを断ち切り、自分たちで立ち上がることを基本に据えたことが背景にあります。

 そして、人口11万人の会津若松市を訪れる300万人の観光客の1割である30万人を会津北部の喜多方市に招き入れる夢を持ち、一気に走りました。私は、地方公務員、医者、郵便局員、新聞記者、農業後継者で「参金会」という広域市町村の青年による勉強会を作りました。この町おこしのグループが地域を変えたのです。また、政治家、町村長、郵便局長といった長の付く人は皆呼び、勉強会を継続的に行って、会津の現状は大企業依存の結果であることを反省しました。人口3万7千人の喜多方市には、現在100万人の観光客が訪れ、170件のラーメン店が営業を続けております。


■喜多方ラーメンの原点

 喜多方市の奥に石膏の鉱山があり、ここに中国や台湾から働きに来ていました。しかし、痩せて鉱山労働者になることが出来なかった小柄なバンさんは、支那そば屋を「夜鳴きそば」で始められました。これがかつての喜多方ラーメンの原点です。

 喜多方市内の有名店は2〜3軒ですが、皆、このバンさんのところで指導を受け、開業された方々です。「板内食堂」、それから押しも押されもせぬ喜多方一の「まこと食堂」の開業です。私も、かつて高校野球の審判で朝の練習が7時に終了すると、空腹を満たすため「ちょっと作ってもらうべ」と「まこと食堂」で頼みました。これがタクシーや長距離トラックの運転手さんたちに口コミで「朝7時から食える喜多方ラーメン」が認知され始めました。


■2700の蔵で「まちなか観光」の創造

 戊辰戦争で会津若松は焼かれましたが、白虎隊、飯盛山、お城、近藤勇のお墓、猪苗代湖、野口英世の生家、そして裏磐梯等、素晴らしい観光資源があります。一方、喜多方は焼かれず、そこに実は厠(かわや)蔵、隠居蔵、全部目的に応じた蔵が2,700残っていました。そこで名所・旧跡の観光は会津若松市に任せ、蔵を巡って蔵住まいの町の中を歩いてもらう「まちなか観光」を新しく創り出し、喜多方ラーメンと連動させました。また、NHK番組「新日本紀行」で「蔵住まいの町」として全国に紹介されました。

 現在、喜多方市に馬車が走っていますが、これはかつて、経営に行き詰まった漆器店経営者に薦めて、湯布院の観光馬車のパンフレットを参考に、馬の後にリヤカーを仕立ててもらったのが始まりで、今癒しの時代、馬車に乗る子供達の行列ができています。

 100万人の観光客で、ラーメン産業も含めて、試算ですけれども約50億円です。これが会津若松市を取り込んだ会津一円の観光エリアで捉えると、大体300億円産業で、その一角を私たちは15年間で成し遂げました。

 その間、私たちが説得してきた行政、民間、農家の果たすべき役割も、自ずと理解されていきました。


■武士道とお茶、「文化」の創造

 岡倉天心が、日本人初の外国向け英語の本を出した際、「日本とは武士道とお茶」と冒頭に書きました。この言葉の深さをアメリカ追随型の経済で日本人は今捨てようとしていますが、21世紀の子供たちのためにも失ってはなりません。

 例えば、富山というと会津ではみんな「薬」です。「それはだめだからもっと違うものを」と思い、長い間、日本人の健康を培ってきたことを忘れて物づくりを行うと、失敗します。

 また、喜多方市には小ホール「喜多方プラザ」があります。稼働率78%は全国で断然トップです。館長は私の友人で、彼は館所属の15人の若者の異動を、17年間市長に凍結を依頼し、素晴らしい技術者集団を育てました。歌手のさだまさしさんは「照明、音響、舞台効果、どれをとっても日本一」と絶賛し、芸能関係者に吹聴してくれました。また、館長は喜多方ラーメンを小脇に抱えて、全国の音楽事務所に自費で訪問しPRに努め、利用してくださった音楽事務所の社長から、高い評価を受けました。

 地域の人達は「喜多方プラザを育てる会」の会員となって、年間会費1万円をホールのために負担します。また、ニューイヤー、サマー、クリスマスの各コンサートのチケットは、インターネットで、九州から北海道まで即完売します。

 素晴らしい音楽や美術をこの喜多方という町から発信することができたら、私たちの夢が漸く叶います。「文化」とは、創る物です。私たちは新しい21世紀の文化を、会津からもう一度創り、残そうという一心で、頑張ってきました。


■ラーメン王国フェスティバル

 15年前、全国の有名ラーメン店を喜多方市に招き「ラーメン王国フェスティバル」を開催した際、スタートして2日目に、7万人もの来場がありましたが、最初に売り切れたのが、札幌ラーメンでした。

 「負の論理」、負けることが大事です。これが危機感を喚起して「懲りない面々春一番」と題し、第2回目をラーメン店の経営者たちが実行委員となり開催しました。その際、製麺を取り扱う大企業が「現在の製麺の仕入原価の3分の1での納品」という提案をしてきましたが、大企業に依存したことによる昔の大失敗を繰り返さないためにも、シンポジウムなどを繰り返して開催した結果、喜多方の経営者たちは「大企業依存は良くない」ということに気付き、現在では地元の製麺業者・タレ製造業者11社が育ちました。


■中国料理秘伝のタレ

 昭和58年、中国に教科書問題に関連して6千冊の使用済みの教科書を中国政府に寄贈したところ、中国政府から礼状と招待状が届きました。その時、中国旅行に誘った「まこと食堂」の息子さんは、秘伝のタレを開発しました。ここと思ったら行動する事が大切です。

 このタレで作ったラーメンは、タレントの研ナオコさんや日本ラーメン党党首で知られる落語家の林家木久蔵さんが食し、色紙に「喜多方に幻のラーメンみつけたり」と書き、絶賛しました。


■マスコミの注目

 慶応大学出身の味噌醤油屋が、マイクロバスの中を蔵づくりに改造して、味噌と醤油をタレに使い、東京の溜め池交差点に戻り、「喜多方ラーメン」と書きました。キャッチコピーの「喜多方だけども来たかった」も評判となり、東京のテレビ局が全局取材に来ました。これで喜多方ラーメンはマスコミに出るチャンスを得ました。今でもそのバスは記念品として残っています。


■経団連の土光氏の言葉

 私は、町おこしの第1回シンポジウムの講師として招聘すべく経団連の土光氏(故人)にお会いし、会津白虎隊や西郷隆盛の切腹という二つの出来事について語り合った際、土光氏は「彼らは次代の人間に、自分の果たすべき役割と潔さを残しました。21世紀にこの借金大国の日本を進ませる訳にはいかないので、私は90近い歳でありながら、この日本に最後の報恩、感謝の気持ちで行革の会長を引き受けました」と語られました。そして第1回シンポジウムに全面協力いただき「自立自助、自ら立ち上がるものだけが、自らを助ける。安易な大企業依存、安易な政治家依存、安易な行政依存はするな」と、諭されました。

 私は、土光氏の薦めで国の行政改革国民会議のメンバーとなり、松下幸之助氏他の知己を得ました。

 松下氏は「ナショナルが世界一になれたのは、物づくりの結果ではなく、人材を育てたからです。また、(1)夢やビジョンを持ち、(2)夢に向ってのプロセスを考え、(3)自分は何を為すべきか自問自答し続けることが大事です」と語られました。


■様々な夢と創造

 また、私たちは、温故創新・温故知新を実践し、ラーメンを文化創造の引き金とし、今では“観光客150万人”の夢を持っています。夢を持った町と持たない町の差は歴然とします。お陰様で、私たちは会津若松市から、100万人の観光客を得ています。修学旅行では、会津若松市は車中からお城を眺めるだけですが、喜多方市では子供達は5人一組となり携帯電話を渡され、1日散策します。ラーメン屋では修学旅行の栞を持った子供達に、醤油・味噌・塩など違った味の喜多方ラーメンを体験してもらうため、来店した子供達5人にラーメン2人前と小分け用の丼5杯を供します。そうすれば、ラーメン1杯でお腹がいっぱいにならず、醤油味のラーメン店の後、次は親戚筋の味噌味の店、塩味の店といったように幾つもの違った味の喜多方ラーメンを食すことができ、経済の活性化にも貢献します。また、地方の文化に触れ合う多くの機会が与えられます。ですから、関東6県の修学旅行は今こぞって喜多方市です。

 また、喜多方市は、浄水場が無くても良いほど地下水が豊富に湧出するので、水洗の公衆トイレという認識がなく、インフラ整備が遅れました。インフラ整備をはじめトイレが綺麗になってくると、観光客はどんどん増えてきました。


■吉本興業の芸人さん達の口コミ

 行革のメンバーに吉本興業の中村会長の弟さんがおられた関係で、芸人達に会津のことは全部しゃべってもらおうと、喜多方ラーメンを沢山贈り続けました。ラーメン代だけで、「これが本物の喜多方ラーメン」と皆、しゃべってくれます。お陰で喜多方ラーメンは吉本の芸人さん達からいろんなところへ伝わります。

 大阪に行った時、ミスターレディのベティさんにお土産の喜多方ラーメンを渡すと、あのニューハーフのお店で舞台から宣伝していただき、また、客として来店していた大阪のキタとミナミのクラブのママさんたちは、配られた喜多方ラーメンを各々のお店で酔客たちに供され、関西にあっという間に伝わりました。


■戦略と戦術、やる気と行動力

 戦略と戦術が必要で、秘策はなく、要はやる気と行動力で、知恵を絞れば、何処にどんな突破口があるか分かりません。
 例えば、私たちは、浅草と高島平の駅前で手書きの全会津の地図を配りました。その時に浅草の駅長から「プラットホームに行って、何枚捨てられたか調べれば、成功か失敗か分かるよ」と助言を受け、すぐ確認した結果、捨ててあったのは3枚だけでした。「都内主要駅では、全国の市町村がそれぞれの町村が単独でイベントを行い、プレゼントや三つ折のカラー写真のパンフレット等を配布していたが、だいたいは捨てられています。一方あなた方の地図は手書きで故郷の香りのするような物で、大きさも手頃だったため、多分持ち帰ってトイレに貼っているでしょう。大成功ですね」と駅長から一言ありました。その地図には、トイレに貼るよう書いておきました。


■浅草発、ラーメンの町・喜多方行き

 東京・浅草から喜多方市までは、以前は何回か電車を乗り換えしなければ行くことが出来ませんでしたが、今では乗り換えすることなく、浅草からラーメンの町・喜多方に直通で行けるようになりました。金額は新幹線の半額ですが、所要時間は新幹線の倍で、これは仕方がありません。

 また、浅草と喜多方市を結ぶ路線の一区間である「会津鬼怒川線」(栃木県藤原町―福島県田島町)は、紅葉の真っ盛りの時期、この不景気にも拘わらず評判です。秋には喜多方プラザで素晴らしい美術展が開催され、ラーメンも食べられます。それから9ある酒蔵が公民館の公開講座で自分酒作りというのを提案しており、全国から受講者が集ります。お正月に再訪すると自分酒の酒瓶に自分のラベルが貼られます。このため、会津の観光客数は、他の観光地と異なり、極端には落ち込みませんでした。


■理念に生きた白虎隊、理想に生きた野口英世

 白虎隊は、武士道、葉隠れの道に真っ直ぐ生きて、理念を失わず切腹しました。

 野口英世は、アメリカの野口英世財団に残されている日記に「医学の道というのは、世の中から病原菌を撲滅することで、私はこれを医者の使命としている」と記されていると言われています。彼は今、日本人が閉塞状況に陥っている時代に、高い理想に真っ直ぐ生きることの大切さを教えてくれます。従って、今も白虎隊の墓と野口英世の生家だけは、観光客が絶えません。


■歴史的変革期に国を動かす地方の青年たち

 会津藩士で白虎隊の末裔である井深氏は、早稲田大学の理工学部で学び、たった5人の町工場から世界のソニーを創られました。私の長男も井深イズムのソニーに憧れましたが「今のソニーには井深イズムはもうない」と帰ってきました。その後、彼は、一酸化炭素をゼロにするという画期的な燃料添加剤を2年掛りで発明し、それからセラミックで水質を浄化する装置も開発しました。現在特許申請中です。

 このように、次の世代は、今迄の破壊の時代から、21世紀のキーワード「自然と共生」について必死に考えています。また、それができるのはロマンあふれる雪国、北国です。


■富山の文化の創造と掘り起こし

 この富山の素晴らしい歴史、文化を掘り起こし、同時に文化を創出すべきで、道のりは遠くなく、青年たちが必死になって立ち上がれば、地域は必ず変ります。また、人そして生活態度は重要で、殊に子供たちは、母親が活き活きとした後姿を見せればこの富山に残りますが、悲しく淋しい後姿を見せたら、子供たちは二度と富山には戻って来ません。

 また機会がありましたら、お邪魔致します。ありがとうございました。



講師プロフィール 山口和之氏
1946年福島県生まれ。中央大学法学部卒業後、文部省社会教育局に入省。70年に退省し、家業(酒屋)を継ぐ。福島県商工会・青年部連合会長などを歴任、現在、福島県地域づくりネットワーク21会長、(社)行革国民会議メンバーを務める。


※本稿は平成15年10月18日に当所青年部が主管して開催したYEGフェア2003(於:富山国際会議場) での講演内容を講師の了承を得て要約したもので、文責は編集部にあります。


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