「商工とやま」平成16年11月号

発掘から解明する富山城 其の一

◆発掘で初めて解った戦国時代の富山城

富山市埋蔵文化財センター 専門学芸員 古川 知明

 富山市埋蔵文化財センターは市の城址公園整備計画に先立ち、平成14年度から城址公園内の発掘調査に着手しました。城址公園で考古学的な調査が行なわれたのは初めてです。そこで、今回から、富山市教育委員会埋蔵文化財センター専門学芸員古川知明氏のご協力を得て、富山の価値資源である富山城の調査結果について分かりやすく解説していただきます。


■富山城はどこにあったのか?

 今をさかのぼる約四百数十年前、富山城は越中平定を成し遂げた戦国武将佐々成政の居城でした。富山城を初めて築いたのは、佐々成政より約四十年前、越中守護代神保長職(ながもと)によるといわれています。

 神保氏や成政がいたころの富山城はどこにあったのかは、正確にわかっていませんでした。それを知る手がかりは、江戸時代の歴史書『富山之記』にあります。そこには神保氏の治めた富山城のことが記され、その記述から、城は現在の富山市星井町付近だと推定されます。

 しかし城の研究家は、現在の富山城(城址公園)の水堀や郭(くるわ)の配置が、他の戦国時代の城の構造に類似することから、前田氏が築いた江戸時代の富山城は、神保氏や成政のいた城を利用して築城した可能性が高いと考えました。ここに星井町説と城址公園説の二つの説が出されることになり、決着をみることなく今日に至っていたのです。


■発掘により城址公園説が確定的

 城址公園には昔県庁など建物が建築され、戦災、地下駐車場建設などで城跡は残っていないと考えられていました。しかし地下からは戦国時代の遺構や陶磁器が続々と出土し、神保氏や成政の富山城は、この城址公園にあったことが確定的となったのです。


■水堀で囲まれた大きな城郭

 これまで3年間の調査で、戦国時代の富山城の構造が少しずつわかってきました。

 全体の大きさは、現在の城址公園とほぼ同じで、東西260m、南北120mに及び、3万uを超える大きな城でした。南側に広がっていた可能性もありますが、ビルが立ち並び、残念ながら確認することができません。城は水堀で囲まれ、その内側には土塁が巡らされていたようです。城の北側には神通川(現在の松川)が流れ、その水を堀に引いていたと考えられます。江戸時代の土塁の下にも堀が存在することから、堀は二重に巡っていた可能性もあります。

 公園の中央には南北に延びる堀が存在し、城の敷地(郭といいます)を大きく二つに仕切っていました。堀の規模は十分わかっていませんが、10数mあったと思われます。


■落城?出土品から新しい歴史

 この中央の堀には、東側の郭から多くのゴミが投棄されていました。酒を酌み交わすかわらけの杯、木炭、穀物(コメ・ムギ・ヒエ・アワ・マメ・ソバなど)があり、いずれも強い火を受けて炭化していました。これは城内が火災に遭ったことを示しており、備蓄されていた食糧が焼けてしまったため捨てたと考えてよいでしょう。

 戦国時代にこのような火災があったという記録は残されていません。元亀3(1572)年に富山城に立て籠もった一向一揆勢が上杉謙信方に攻められ落城したという記録があり、この戦いの時に城が焼かれたことも考えられます。今後火災の年代を突き止められれば、残された記録を裏付けることになるでしょう。

 このように発掘は、消え去ってしまった過去の歴史を現代に蘇らせることができる重要な作業です。そこから掘り出された出土品はごくわずかですが、その物言わぬ遺物から過去の物語を引き出し、地域の歴史を明らかにすることが考古学の仕事なのです。


■お問い合わせ先/富山市埋蔵文化財センター 076-442-4246


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