「商工とやま」H17年5月号

発掘から解明する富山城

◆其の六 富山城の時鐘

富山市埋蔵文化財センター 専門学芸員 古川 知明 


 6月10日の時の記念日の正午に、神通川原で「ドン」の打上げ花火が上がることをご存知でしょうか。これは、もともと富山城で2時間毎に「時鐘」を撞いて時を知らせていた名残として現代に引き継がれたものです。


■藩主の願いを込めて鋳造

 富山城の時鐘は、寛文11年(1671)4月21日安養坊山で専用のものが鋳造されたという記録があり、これが最初のものと考えられます。安養坊山は現在の呉羽山展望台付近で、富山城の佐々成政を攻める際に前田利家が軍勢を駐留させたところです。
 初代の時鐘は、12年後何らかの理由(神通川洪水?)で破損したとみられ、天和3年(1683)5月急遽寒江自徳寺から鐘を借り出して代用しました。2代目の鐘は、それから3年後、藩主前田正甫公が金沢から当時名工と誉れの高かった釜屋彦九郎(宮崎義一、後の宮崎寒雉)を呼び、安養坊山で鋳造しました。この鋳造にあたり正甫公は、鋳造中に金銀を溶かし込んだり、借りていた自徳寺の鐘と完成した鐘を釣替るとき、二つ並べて交互に撞いたりして、たいへんなパフォーマンスを展開しました。
 これだけ力を入れて作った時鐘でしたが、正甫公はわずか5年でこの時鐘を改鋳してしまいます。元禄4年(1691)、3代目の時鐘が完成した夜、正甫公は曹洞宗から法華宗に改宗しているので、この記念行事として時鐘を新調したものと考えられます。この頃正甫公は厄年に当たり、2度も大病を患っていました。1度目の病の回復後は改名し、また大法寺僧日徳の法談を聞いて日蓮宗への改宗を決意しましたが、2度目の大病を患ってしまいました。その回復後に時鐘の新調を行ったことから、厄災から逃れたいという意図があったとみられます。ちなみにこの時は以前のようなパフォーマンスはありませんでした。


■明治の大火で消滅

 4代目の時鐘は天保6年(1835)に鋳造されました。この鐘は、明治6年(1872)の時鐘台取壊しに伴い西町辻に移転し、明治16年再び城内に戻って石垣の上に設置されました。しかし明治32年の大火で時鐘台は焼け落ち、時鐘も粉砕してしまいました。当時この壊れた時鐘は、正甫公が鋳造した金銀の入った時鐘(実際はそれから2回改鋳された4代目のもの)という風評が流れ、破片が多く略奪されたという新聞記事が残っています。このとき富山城の時鐘は名実ともに消滅してしまったのです。
 明治16年から32年まで石垣の上に時鐘が存在していたときの写真が4枚現存しています。それに写っている石垣の高さを基準にすると、4代目の時鐘の大きさは、直径90cm以上、高さ135cm以上(吊下げ用龍頭部分を含まない)に復元されます。


■奉納された鐘はモニュメント?

 富山藩主祈願所であった富山市於保多町の於保多神社には、富山城の時鐘と伝える鐘が正甫公顕彰碑として奉納されています。しかしその鐘は、写真から復元した大きさよりはるかに小さく、鐘の各部分の文様は、宮崎義一や富山鋳物師が使用しなかった型式のものです。このことから於保多神社の鐘は、碑を造立するときにどこかから取り寄せられたモニュメントであることがわかります。
 考古学が研究対象とするのは、何も数百年以上経ったものである必要はありません。昨日以前の過去において、人間の営みによって遺されたものすべてが研究対象となりうるのです。


■お問い合わせ先 富山市埋蔵文化財センター TEL076-442-4246



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