「商工とやま」H17年8・9月号

 呉羽丘陵を語る -- その2 呉羽丘陵 豊かな歴史   

(財)富山市ファミリーパーク公社 園長・飼育課長 山本茂行氏

■呉羽 その名はどこから

 呉羽という名前は県外人にもよく知られている。その名の由来について、知っていても損ではないだろう。

 由来を探る格好の本がある。
 「神通川と呉羽丘陵―ふるさとの風土―」(廣瀬誠著、桂書房)だ。
 それによると「クレハヤマが御服山と表記されて初登場するのは寿永二年(一一八三)」である。一方、「富山という地名の文献初出は応永五年(一三九八)」で、「越中国外山」と表記されている。

 廣瀬先生は、「富山よりも呉羽山が二百年も古いのである」と論じている。
 その上で、「トヤマはミヤマに対する語」、「奥山深山に対して人里に近い山を戸山端山」といい、「立山などの深山に対して、その手前の呉羽丘陵を戸山と称し、その丘陵に近い地を戸山郷戸山保と称したのではないか」と言う説を紹介している。

 では、呉羽はどうか。

 「『古事記』によると、応神天皇のとき朝鮮半島の百済から西素という名の『呉服』が渡来」。
 「日本書記」では、「呉国から漢織・呉織が渡来帰化」とされている。
 この「呉服も呉織もクレハトリと読む」そうだ。
 「『日出づる国』日本に対して日没する大陸の国を『日の暮れる国、クレ』と称した」。
 「クレから渡来した機織技術者がクレノハタオリ、ちぢまってクレハトリ」となる。
 「クレハトリの居住地の地名をクレハと称し、漢字で呉服と書き、やがて音読してゴフク」となり、「ゴフクには呉服・御服・五福などの当て字も」書かれるようになった。
 このくだりになると、ようやくクレハが何たるかが見えてくる。

 そして、廣瀬先生は、呉羽駅近くの「姉倉比売神社」に祭られる姉倉姫が機織の女神であり、「大陸文化が呉羽山一帯に息づいていたことの意義」に思いを馳せる。

 歴史は門外漢だが、先生の思いの一端を共有できたと感じるのは私だけではあるまい。関心ある方は、ぜひ「神通川と呉羽丘陵」を読まれるがよい。


■今も呉羽丘陵に点在する歴史

 さて、私が呉羽丘陵に、最も歴史を感じることがらは何かと言えば、「呉羽茶」である。

 富山藩二代藩主前田正甫により植えられたとされる呉羽茶は、水がなく米ができなかった呉羽丘陵において、優れた換金作物として栄えた。

 明治時代には丘陵全体に茶畑が展開し、富山県内の全消費量をまかなうほどだったそうだ。それがだんだんと、梨畑にとって変わっていく。梨作業のほうが労働賃金が高かったことも関係し、昭和の後期に呉羽茶は消滅した。
 呉羽には、かつて数十軒もあった製茶屋も、いまでは、一軒を残すだけ。その店も県外から仕入れたお茶を扱う状態である。
 お茶を駆逐してしまった梨畑もいま、後継者不足に陥っていると聞く。時代の流れを感じずにはいられない。

 でも、時代時代を生きた証拠が、今も呉羽丘陵で見ることができる。放置されて荒れ放題の竹薮や雑木林に入ると、かすかに畝跡が残っている場所がある。その跡に沿って、茶の木が生えている。一見ヒサカキなどの低木の常緑樹と間違いやすいが、呉羽丘陵にしっかりと残っている。

 ファミリーパーク園内では、里山再生活動を行う市民いきものメイトの皆さんがお茶畑を復元し、製茶を始めた。

 晩秋から冬にかけて呉羽丘陵を歩いてみればよい。道端で、白い花を付けたお茶の木が風に揺られ、歴史を感じさせてくれるだろう。



■お問い合わせ先 / (財)富山市ファミリーパーク公社 TEL076-434-1234


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