「商工とやま」平成18年1月号

呉羽丘陵を語る その5 呉羽丘陵の未来にむけて

(財)富山市ファミリーパーク公社 園長 山本茂行氏


 先人は、なんと素晴しい財産をわたしたちに残してくれたことだろう。
 呉羽丘陵という宝の山を。

 日本各地、どこへ行ってもおなじみの風景がある。街から続く丘や山は住宅地として開発され、寸断された緑がいやおうなく目線に飛び込んでくる。誰もが一度は経験していることだと思う。
 住宅地が問題だと言うわけではない。家や塀、コンクリートの擁壁、電柱などが山肌を覆う姿は、街としての景観や風情に少なからず影響を与える。

 その点、富山市中心部から見る呉羽丘陵は、緑の屏風がわたしたちをなごませてくれる。丘陵の西、ファミリーパーク側に来れば、たおやかな緑のウェーブが安らぎを感じさせてくれる。
 県都の中央にある丘陵が、このような形で残されている例は他にないのではないだろうか。

 呉羽丘陵を守ってきてくれた人々の努力に敬意を表するとともに、その大切な宝を、わたしたちは後世にしっかりと残していきたいものである。


■荒れるということ

 遠目に見れば宝の山の呉羽丘陵だが、前回ご紹介したように、中に入れば未来にむけた大きな課題が横たわっている山でもある。長らく放置された呉羽丘陵は、手入れがされなくなった里山と同じ荒れた状態になってしまった。

 ところで「荒れた状態」とは何だろう。別にごみが散乱しているわけではない。農耕や林業など、生産の場としての環境が「荒れた」ということだ。
 高温多湿で四季がはっきりとした日本の自然の再生力は強い。「荒れた状態」は、遷移していく自然の姿と言い換えることもできる。でも純粋な自然の変化を見ているのではない。呉羽丘陵は原生林ではなく、人の営みの場・里山であったからだ。お茶畑、孟宗竹林の浸入、柴刈りをしなくなった林床…。その変化は、いずれも人為的な圧力がなくなったらどうなるか、という意味での変遷の姿なのである。

 里山という景観に、日本人は、自然との共存の独特の姿を見てきた。そして美を感じてきた。里山は人と自然との力のせめぎあいの場であり、折り合いの結果でもあった。
 それが廃れていく様は、廃村を見るように寂しいものがある。
 歴史は戻らないという。生活様式が変化し、人口が減少する時代の始まりの中で、里山がかつての生業、生産の場に戻ることはない。
 「荒れる山」をどう考えればいいだろう。


■未来への視点

 里山が「荒れる」ということは、人が行かなくなり、無関心でいた結果ともいえる。
 それでいいのだろうか。
 先が不透明な今の社会、明るくて楽しい話題が少ない。高齢化社会の行く末、将来に不安を抱える中高年層。多発する子どもたちの事件や事故…。
 里山は、利用の仕方によって、こうした社会的課題に応えられる場所だと私は考えている。

 里山は、大人が元気になる場にできる。自然に手を入れ、関わることで、自分を元気にもできる。心地よい汗と、流れる風は人をリフレッシュさせる。その結果、里山に美の空間が復元し、人々を魅了していく。
 また、里山は、子どもたちの自然体験、遊びの場にすることができる。自然の遊びは子どもたちをたくましくする。予期せぬ事態に判断が問われるのが自然相手の遊びだからだ。

 思い起こして欲しい。大人も子どもも、人は生き物だってことを。誕生して500万年、その大半を、人は自然を相手に食べ物を採り、安全な住み家を探し、火を囲む暖かさを得てきた。自然に関わることに関心を持つことは、本来の人の自然な姿なのだ。近年、それが急激に崩れてきた。人を不安定にしているのはそのことも関係していると私は考えている。

 里山への新しい関わりと利用。それは人間らしさの復活につながると思う。呉羽丘陵は街に近く、ほどよい大きさである。健康で元気な人々を生み出す最適な場所だと思う。みんなで活用の仕方を考え、後世に託したいものだ。


 ■お問い合わせ先 (財)富山市ファミリーパーク公社 TEL076-434-1234


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