「商工とやま」平成19年2・3月号
特集 産業観光で、富山の価値を新たに発見する

 富山商工会議所が平成15年から取り組んでいる「産業観光」。今回の特集では今注目を集めている「産業観光」にスポットを当て、富山の産業観光資源やその歴史、今後の課題などについてご紹介します。


■産業観光とは

 「産業観光」とは、地域の産業文化財を再認識し、物づくりの心に触れることを目的とする「観光活動」のことです。また、産業文化財とは、歴史的・文化的価値をもつ工場やその遺構、機械器具、産業製品等のことです。産業観光は「体験する、考える、学ぶ観光」という社会ニーズに応えるだけでなく、人的交流を促進する効果も得られることから、これからの新しい観光活動として注目されています。


■とやま産業観光推進協議会のスタート

 「とやま産業観光推進協議会」は、富山商工会議所が富山市価値創造プロジェクトを展開していくなかで、富山の価値資源に観光面から光を当て、地域の活性化につなげていくための推進母体として平年15年3月に発足しました。富山の主要企業と行政にご参加いただき、「産業観光」による歴史的・文化的資源の再発見と新たな創造や、人的交流と都市の活性化を目指し、一体となって産業観光の振興に取り組んでいます。

 富山には、医薬品、化学、電源開発、機械金属、プラスチック、ハイテク産業、かまぼこ、ますの寿司など、ものづくりの県として有力な産業観光資源が数多くあります。それらを、自然・歴史・文化などと結びつけ、より多くの人に「富山ならでは」の価値に触れ、学び、体験し、理解してもらおうという狙いがあります。

 富山の産業の近代化への軌跡や、先人の偉業、いまも息づく伝統産業などを紹介し、広くPRすること。そしてそれらの大切な資源を、次世代へとつなぐことが重要です。産業観光によって、富山の観光産業の振興はもちろん、地域産業の成長や発展にも期待が高まります。

 では、富山の産業観光にはどんな歴史があり、特徴があるのでしょうか。まずは、富山の産業の歴史を振り返ってみたいと思います。


■暴れ川の治水とともに

 戦国時代、佐々成政は治水に取り組み、「佐々堤」の築造や、いたち川の改修を行ないました。常西用水路の川底には成政が造った石堤の跡が現在も残っています。「さらさら越え」だけでなく、治水での業績も、後世に伝えるべき大切な遺産なのです。

 また、富山県の誕生も、治水事業と深く関わっています。明治16年(1883)に石川県から分県したのも、治水事業がきっかけでした。現在に至るまで、常願寺川をはじめとした治水・砂防事業は続けられ、県民の生命と財産、暮らしを守っています。


■越中売薬、全国へ

 富山藩二代藩主、前田正甫公を祖とする越中売薬は、藩の保護政策のもと、全国に市場を拡大しました。当時、領外から現金収入のある藩はほとんどない中、富山藩では、幕末には売薬商人が毎年約20万両の「外貨」を、10万石の藩内に持ち帰ったといわれます。こうして蓄積された売薬業者の資本が、明治に入り近代産業を育てました。売薬業の発展は、薬の包装やおまけなど多くの関連産業を派生させ、「薬都富山」を形作っていきました。


■北前船の昆布が運んだ富

 商才にたけた売薬業者の中には、北前船の船主を兼ねるものも現れ、蝦夷地の昆布やニシン、魚肥などを南方に運んで利益を上げました。

 また、売薬商人たちは、薩摩藩での営業許可のため、北前船で運んだ蝦夷地の昆布を薩摩藩へ送りました。薩摩藩はこの昆布などを琉球経由で中国(清)へ密輸し、中国からは漢方薬を輸入。漢方薬は越中に持ち込まれて、新商品が開発されました。薩摩藩では、こうした蓄財によって財政を立て直したばかりか、後の倒幕運動の資金になったとも言われています。


■ぶり・ノーベル街道

 富山湾で穫れたぶりは塩漬けにされ、東岩瀬や四方から高山へと運ばれました。「越中ぶり」は縁起物として、歳暮や祝い事に珍重されました。
 さらに高山からは「飛騨ぶり」と名を変えて、松本方面へも送られました。越中と飛騨を結ぶこの交易ルートは、「ぶり街道」と呼ばれるようになりました。

 また、田中耕一氏や利根川進氏など4人のノーベル賞受賞者がぶり街道沿線に縁があることから、最近では「ノーベル街道」としても注目を集めています。かつて「出世魚・ぶり」が運ばれたこの街道を、現代の出世街道になぞらえてみることができます。


■日本海側屈指の工業県へ

 富山の豊かな水の恵みは、水力発電を興し、近代工業化をもたらしました。そして、それを支えたのも薬種商、売薬業者の資本でした。

 県内最初の銀行、富山第百二十三国立銀行(後の北陸銀行)の副頭取についた密田林蔵、取締役の中田清兵衛はいずれも売薬商人でした。また、明治30年、北陸初の電気事業会社の富山電燈会社(北陸電力の前身)の初代社長に金岡又左衛門が就任。同社は、大久保用水路の落差と水量を利用して、現在の富山市塩(旧大沢野町)に県内初の発電所を建設しました。
 昭和初期には、富山県は全国最大の電力供給県となり、安い電力を活かして、農業県から工業県へと大きく飛躍したのです。

 また、神通川の治水事業で生まれた廃川埋立地は昭和10年頃には新都心として生まれ変わり、県庁や富山電気ビルが建ち並びました。富岩鉄道(現富山ライトレール)と富岩運河沿線の岩瀬地区では、工場が次々と進出し、富山北部工業地帯が形成されていきました。


■富山の近代工業化を推進した、売薬で培われた「ものづくり」の伝統

 戦後、電力資源を背景に、鉄鋼、化学などの重化学工業を中心に発展してきた富山市の経済も、二度のオイルショック後は、産業構造の転換を迫られます。
 「基礎素材型」から、「高付加価値型」への誘導がすすめられ、ハイテク企業団地が立地。高い技術力を活かした加工型産業が集積していきました。その後も市内には「ものづくり」の技術と頭脳産業の集積をはかった新たな産業が多く生まれ、花開きました。

 全国各地を行商して、見聞を深めた売薬商人の進取の精神は、現代の高度情報産業へと開花しました。売薬業にはじまる「ものづくり」の伝統を活かしながら、富山の産業は様々な業種展開を見せています。
 富山独自の風土と、優秀な人材、高度な技術が、長い時を経て、いまも変わらず根付いているからなのです。


■富山の産業観光のこれから

 これからの富山の産業観光について、富山商工会議所副会頭で、とやま産業観光推進協議会の朝日会長にお話を伺いました。

 「新富山市は42万都市になり、産業観光の地域も大きく広がりました。施設の追加やルートの見直しはもちろんのこと、観光ボランティアの充実など、ソフトの充実も今後の課題です。また、富山には、工業だけでなく、農業も水産業もあります。食の楽しみをもっと取り入れ、富山らしいルートにしたい。全国的に注目されているライトレールでこれらの豊富な資源を結びつけ、魅力ある産業観光へとつなげていくことも可能だと思います。

 また、一般の観光客向けだけでなく、富山に住む人自身が富山を知るきっかけとして、更には次世代を担う子供たちにとっても産業観光は有効だと考えています。昨年、親子向けの産業観光バスツアーを実施し、大きな反響がありました。今後も、子供たちには、地元にも様々な分野ですばらしい企業や仕事があることを伝えていきたい。学校のカリキュラムの中に、ぜひとも産業観光を入れてもらえれば、と考えています。子供の頃の体験は、印象深く心に残るものです。将来、子供たちが地元に就職してもらえる、大きなPR材料になるのではないでしょうか。

 他方、来年3月に東海北陸自動車道が全線開通すると、富山は環日本海側の拠点になるわけです。自動車産業などを中心に元気な中京圏との距離が縮まることで、国際物流ルートなど、ビジネスチャンスの拡大も期待されますし、人の交流もより活発になります。産業観光の推進によって、富山の魅力を、さらに全国に広めていきたいと考えています。

 北陸新幹線開業へ向けての準備も始まるなか、産業観光も更に発展していくことが期待される」と、力強く抱負を語っていただきました。

 同協議会と当所では、これまでに、産業観光ルートの調査研究、モデルコースなどを掲載したガイドブックの作成、観光フォーラムの開催、ホームページの充実、全国産業観光フォーラムへの参加など、様々な事業に積極的に取り組み、成果を上げてきました。 

 今後も、とやま産業観光のコース内容をさらに充実させ、県内外に向けて情報発信と観光ルートの開拓に努めていきます。

 皆さんも、これまでとは違った角度から富山の魅力を再発見できる産業観光に、出かけてみませんか。


■とやま産業観光推進協議会事務局  当所産業振興部 TEL:076-423-1170

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