「商工とやま」平成20年5月号

特集
 富山売薬が育てた富山のものづくり
 −近代産業の基盤から先端産業まで−

 薬の製造・販売に独特のかたちを持つ売薬は、中世に起源をもち、江戸時代に富山売薬として安定した地位を確立しました。そして、その売薬を成り立たせるために、江戸時代から多くの関連産業が発達してきました。

 藩政期が終わり明治になると、商売が自由にできるようになり、売薬業を取り巻く状況も大きく変化しました。まず、売薬によって蓄えた資本を、売薬以外の産業に投資することができるようになりました。売薬業者は銀行の設立に加わり、さらに紡績や電力、その他の事業を興したり、人材の育成にも努めました。また、売薬関連の産業も、容器や紙袋製造の近代化により、売薬以外の用途にも進出し、発展する業者が出るようになりました。

 製函・パッケージ製造、アルミ製缶、製びん、特殊印刷など、多くの特殊技術のルーツを富山売薬に求めることができます。このように富山売薬は、直接的であれ間接的であれ、富山県の産業の発達に深く関わってきたといえます。そこで、富山売薬が契機となって発展した富山の産業について、3回シリーズで紹介します。


(図/富山県郷土史会常任理事 須山盛彰氏)


◆その一◆ 富山売薬の関連産業

 売薬という仕事は、薬をつくってお客に売る商売であり、広い裾野(関連産業)を持つものでした。例えば、一服の散薬(さんやく)(こなぐすり)があっても紙包みに入れなければ、売り物になりません。丸薬(がんやく)や水薬(みずぐすり)、塗り薬、貼り薬と、薬にはいろいろな形があり、それに応じた包装の仕方が工夫されています。また、配置薬行商のための預袋や木函、柳行李(やなぎごうり)などの荒物、おまけのための絵紙(えがみ)(売薬版画)や縫針(ぬいばり)、紙風船などと、十指に余る産業群が成り立っていました。シリーズの第一回目として、富山売薬の成立と関連産業について述べます。


■富山売薬の起こりと特色

 現在行われている富山売薬は、富山藩二代目藩主・前田正甫(まさとし)の時代に始まったとされています。その起こりをたどれば、室町時代からの立山信仰を広める御師(おし)たちの活動があります。彼らが全国を旅して持ち歩いた経帷子(きょうかたびら)や護符(ごふ)(お札)などとともに、黄蓮(おうれん)・熊胆(ゆうたん)などの薬があり、販売されたのでした。

 富山藩二代目藩主・前田正甫は、これまでの売薬をやめさせ、合薬(あわせぐすり)(現在の処方薬)の研究を奨励し、薬効を重視しました。そして備前藩の医師、万代常閑(もずじょうかん)(子孫は万代(まんだい)と名乗る)から伝えられた「反魂丹(はんごんたん)」など、中心となる薬をつくらせました。また、原料の仕入れ、製造、販売を藩の管轄下に置きました。

 商圏は全国に及び、「先用後利(せんようこうり)」をモットーに、信用を築いていきました。会計の方法も巧みで、個々の配置を正確に記した「懸場帳(かけばちょう)」がつくられました。


■売薬製造のあらまし

 富山売薬の最初の商品は、「反魂丹」など4、5品で、薬種商の松井屋源右衛門が藩から命じられて製造していました。

 反魂丹の場合、22味(み)(味は成分)もの薬種を決まった方法ですりつぶし、混ぜ合わせ、小麦粉やそば粉を加えて練り固めて丸薬にしました。はじめのうちは、練り固められて棒状になった材料を、爪で切って手のひらで丸め、小さい丸薬を作っていました。それでは不揃いなものができたので、富山町の数学者、中田高寛が扇型製丸器を発明しました。

 その後、多くの薬種商が製薬を許され、作った薬を決まった売薬行商人が配置販売するようになったのです。そのころには漢方医学を取り入れたり、全国各地の薬の情報に刺激されたりして、商品の種類も次第に豊富になっていきました。

 明治時代に入ると、富山売薬は試練の時期を迎えました。それは西洋薬が入ってきたことと、加えて売薬に売薬印紙税という重い税が課せられたことなどによるものでした。このため、売薬の生産額も行商人も一時的に減りましたが、品質を落とさないことで信用を得ることができました。明治中頃からは海外売薬(中国大陸・朝鮮半島・ハワイなど)が盛んになり、大正15年には売薬印紙税も廃止されて、生産額・行商人とも増加しました。


■売薬の関連産業が発達

 薬の製造と販売は、現代でいえば、自動車産業に匹敵する総合産業でした。原材料を供給する薬種商を中心に、製薬用具、補助材料、包装に使う各種の用紙、容器、進物(しんもつ)用品など多くの品物やサービスが必要でしたので、関連産業が盛んになりました。まず、製薬に直接関係のある関連産業は次の通りです。

○薬種商―薬種商は、薬の材料を集めて売薬さんに卸(おろ)し、それを売薬さんが自家製造して販売しました。製販一体という形が長く続いてきました。

 江戸時代の売薬は、藩が直轄していましたので、富山町では数軒の薬種商しかなく、原料供給の役割を果たしていました。

 明治中期以降の富山町の薬種商は、約40軒を数えました。しかしその後、製薬所の多くが会社経営になると成り立たなくなり、一部を除いて、株式会社、小売商、薬局などに変わり、また転業したものもありました。

○練薬(ねりやく)製造―練薬には、五臓円、延令丹などがあって、蜂蜜・飴・砂糖が配合されていました。売薬業者の手では製造されず、専門の職人を雇って製造していました。

○製飴所―練薬製造のための飴を製造していました。明治中期以降の富山市内の業者数は、7業者ありましたが、現在に続くのは1軒のみです。

○砂糖商―練薬製造を中心に製薬に使用する砂糖を扱う業者は、明治中期以降で13業者ありました。

○膏薬製造―膏薬は貼薬で、頭痛膏・アンマ膏・即功紙・傷薬・万金膏・赤万などいろいろありました。膏薬は釜で煮詰めてつくるなど、製造技術に特殊性がありますので、一般の売薬業者は製造せず、明治中期以降、5業者でした。


■容器製造業

 貴重な薬を必要なときに用いるために、貯蔵し保管する容器や包装が考えられました。それは奈良の正倉院にある薬壺(日本でもっとも古い薬の容器)に代表されるように、各地で様々なものが使用されていました。しかし、販売用として大量、多品種の薬を製造するようになった富山では、専門の容器製造業が出て、工夫を凝らすようになりました。

 江戸時代では、布袋・曲げ物・貝・竹の皮などの容器が用いられました。明治・大正期になると、薬振出し布袋・錫器・ブリキ缶・薬瓶などが加わり、多様な容器が使われるようになりました。そして、これらの容器製造業者の中から売薬容器以外の製造に発展する業者も現われたのです。主なものを種類別に記します。

○曲げ物―主に練薬の容器として使用されました。檜物(ひもの)ともいい、檜・杉などの薄い材を円形に曲げ、底を取り付けた容器で、あわせ目をたがを使わずに樺・桜の皮などで綴ります。明治後期からはブリキに変わりました。明治中期以降の製造業者は、10業者です。

○錫(すず)器―各種の丸薬や宝丹などの容器として、使用されていました。明治中期以降の業者は、9業者です。

○ブリキ缶―明治末期から曲げ物に変わって用いられるようになり、練薬・丸薬・膏薬・胃腸薬などの容器として使用されました。明治中期以降には、15業者の名があります。中でも中町の武内宗八は、ブリキ缶のほかに、アルミニウム容器、チューブ、ゴムバネ式丸薬容器、ニッケル及び真鍮・亜鉛製の容器などを扱っていたと、名簿に付記されています。

○貝―貝は各種の丸薬・膏薬などの容器として古くから使用されてきました。江戸時代には大阪から、明治・大正期では名古屋から仕入れました。明治中期以降の名簿には、晒蛤貝(さらしあわせかい)商として4業者の名があります。

○薬瓶―薬瓶は、水薬(みずぐすり)の容器として多く使用されてきました。明治中期以降には、15業者があります。うち薬瓶を実際に製造しているのは10業者で、ほかの5業者は瓶またはガラス管の販売業者です。

○竹の皮―熊胆(ゆうたん)円(熊の胆(きも))は、生薬のエキスを固めたものを小さく刻んで、竹の皮に包み、帯状の紺の紙紐で巻いて商品にしました。


■売薬用紙の生産

 売薬には、様々な紙が使われます。直接、薬の包装に使うものとしては、包紙・上袋(うわぶくろ)・預袋(あずけぶくろ)などがあります。そのほかに、帳面紙・合羽(かっぱ)紙・行李張紙(こうりはりがみ)、さらには土産(みやげ)用の版画や紙風船などがあります。

○八尾紙の生産 江戸時代には、売薬が必要とする紙は、婦負郡南部の八尾町(現富山市)を中心に生産されました。富山藩は、八尾紙の振興を図るために、売薬商人が他国の紙を持ち帰ることを禁じ、藩内の紙の使用を義務付けました。八尾紙の種類と用途は次の通りです。

〔鳥の子紙〕八尾紙の高級品で、反魂丹など高価商品の包紙に用いました。

〔道市・相滝・赤笠〕配置用預袋の用紙で厚手の紙。

〔大判・小判〕懸場帳などの帳面用の紙。

〔紐紙〕小袋をいくつか束ねるのに用いる紙(現在の輪ゴムの役割)。

〔杉原紙〕売薬版画用紙、薄くて安いことが条件の紙。

 明治に入って、八尾和紙は西洋紙の流入に押されながらも、強靱な性質を持つ純楮(じゅんこうぞ)紙として、売薬にとって必要なものとして残りました。戦後は、工芸和紙として幅広く利用されるようになりました。

○紙商―薬袋・薬包紙・帳簿用紙など、売薬にとって必要な紙は、紙商が仕入れて販売しました。明治中期以降の富山市内の紙商は、16業者です。現在は、紙類の総合卸売商の若林商店ほか、紙店として営業しているものが2、3店あります。


■売薬の印刷物

 売薬では、多くの印刷物が様々な目的で使われていました。江戸時代から明治・大正期にかけてのものを種類別にみてみましょう。

○薬袋―薬袋には、個々の薬を入れる上袋(うわぶくろ)と薬を得意先に預ける際、まとめて薬を入れておく預袋(あずけぶくろ)があります。近代印刷を取り入れるまでは、彫刻師によって彫られた版木により文字や絵が刷り込まれました。

 上袋には、薬品名、製造業者名、効能などとともに、様々な図柄も描かれました。預袋の表には配置業者名(製薬会社名)、裏には配置した薬の名前や個数、年月日を記す欄がありました。消費量の多い得意先には、預函が使用されました。

 薬袋の版木の彫刻は専門の彫師に依頼し、印刷や袋貼りは売薬人の家族や雇人が行っていました。売薬製造が自家製造から会社製造になるに従って、印刷は専門業者に依頼するようになり、活版印刷に変わっていきました。太平洋戦争以後になると、薬袋は印刷業者から買うようになりました。

○売薬版画―富山売薬が得意先に、心尽くしの進物(しんもつ)を配ったことは、有名です。最初の進物は、江戸末期から富山でも製作され始めた売薬版画(錦絵)でした。

 売薬版画は、浮世絵と同様の版画で、名所絵や役者絵、暦絵など数多くつくられました。売薬版画は日本のおまけ商法の元祖ともいわれています。

 売薬版画には下絵を描く人、彫る人、印刷する人がいました。江戸時代には、下絵のほとんどが松浦守美が描き、明治に入って尾竹国一、尾竹竹坡などが描いていました。版元は明治中期以降で、10軒以上の名があります。

○引札(ひきふだ)・広告チラシ―引札とは、宣伝用の印刷物のことをいいます。江戸時代中頃から使われるようになり、大正頃まで作られていました。昭和に入ると、近代印刷による広告チラシやポスターへと変化していきました。

○印判版木彫刻師―売薬版画や薬袋、引札などの版木の彫刻には、多くの版木彫刻師が活躍していました。明治33年刊行の『富山案内記』には、当時の彫刻師として30名の氏名が掲載されています。このうち現在も印鑑業などとして続いている家が1、2あります。


■近代印刷への発展

 売薬関係の印刷は、石版印刷や活版印刷の時代になると、印刷への需要が増え、内容も多様になっていきました。例えば、ラベルやレッテル、細字による効能書の作成、紙以外のものへの印刷など、印刷の工夫が要求されるようになりました。朝日印刷や須垣印刷などが、それらの需要に応えて、売薬用の特殊印刷の技術を考案しました。そしてその技術が現在、他の分野にも応用されています。


■あとがき

 富山売薬の裾野は広く、関連産業はほかにもあります。本稿の目的は、現代の産業に繋がる関連産業について考えようとするものです。シリーズ《その三》で、これらの関連産業が現代においてどのように変化、発展しているかをみようと思います。

 次号《その二》では、売薬によって蓄積された資本が明治期以降、どのような方面に投資され、富山県の産業の発達に貢献したかを考えます。



●筆者紹介
須 山 盛 彰(すやまもりあき)(地域研究者)
 昭和10年富山市生まれ。中学・高校の教員をしながら地域研究を実践。昭和54年県史編纂室へ出向、現代編の編纂にたずさわり、平成7年富山東高校長を最後に退職した。多くの市町村史・地域史の編纂に関わる。富山県郷土史会常任理事。



◆「富山売薬」か、「越中売薬」か

 富山県の売薬をあらわす場合に、「富山売薬」あるいは「越中売薬」を使います。どちらを使っても同じだと思われるかもしれませんが、江戸時代の売薬の場合は、両者の意味がはっきり違います。

 すなわち、富山藩領の売薬人が行う売薬を「富山売薬」と呼びます。従って、富山藩領以外の加賀藩領の売薬は、「越中売薬」なのです。しかし、この場合、売薬人の住むところによって、水橋売薬、滑川売薬、上市売薬、射水(小杉)売薬、高岡売薬などと、呼ばれていました。

 明治16年に富山県ができてからは、どちらでも通じますが、本稿では、富山の旧市街を範囲としましたので、「富山売薬」で通しました。


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