会報「商工とやま」平成21年10月号

特集1
音楽が癒すこころとからだ



 仕事や職業生活に対する強い不安や悩み、ストレスを抱える人が多い昨今、心の不調による休職や離職が増えています。経営のさらなる安定と発展のためにも、従業員の方や経営者ご自身が持てる能力を発揮し活躍できるよう、いつもこころとからだが健康であることが非常に重要になってきました。

 そこで、近年、医療・福祉施設等においても積極的に導入されている「音楽療法」に着目し、今回は富山大学人文学部教授の海老原直邦氏より音楽の癒やしの力についてご紹介いただきました。


音楽にはさまざまな効用が


 音楽が人のこころやからだ、さらには動植物や食物にも影響を与えることが、社会の様々な領域で話題になっています。いわく「音楽はこころを癒す」、いわく「音楽はストレス解消になる」、いわく「音楽は歯の治療の痛みを抑える」、いわく「音楽は体の免疫力を高める」、いわく「音楽を聴かせたワインはうまい」、いわく「乳牛に音楽を聴かせると乳の出が良くなる」などなど、枚挙にいとまがありません。一体音楽は本当に世に言われるような効果をもっているのでしょうか。それともその効果を信じた人の単なる思い込みや錯覚に過ぎないのでしょうか。


療法としての音楽の歴史


 音楽が心身に影響を与えることを信じて、それを意図的に利用する試みは歴史的に古くからあったことが知られています。例えば、古代エジプトでも音楽を用いた病気治療の専門家がいたことが、遺跡の資料などから明らかになっています。聖書の中にも、「神から出る悪霊がサウルに臨む時、ダビデは琴をとり、手でそれをひくと、サウルは気が静まり、良くなって、悪霊は彼を離れた。」(旧約聖書サムエル記上16−23)とあり、悪霊に苦しむユダヤの王様を少年が音楽で癒したことが記述されています。これが紀元前1000年頃のことでしょうか。また、ギリシャ時代の哲学者なども音楽が気分や感情に影響することや、その効用について考察したことが分かっています。

 それ以来、19世紀まで、特に精神的な病気や障害に対して、音楽や音楽的刺激を用いたさまざまな療法的試みが、連綿として続けられてきています。ただし、本格的な近代的音楽療法は、20世紀になってから、特に1940年代、第2次大戦後のアメリカで始まったとされており、戦争による傷病兵を対象として、大きな治療効果のあったことが種々報告されています。


日本における音楽療法活動


 「音楽のもつ生理的、心理的、社会的な働きを用いて、心身の障害の改善、心身機能の維持回復、生活の質の向上などのために、音楽を意図的、計画的に利用する」(日本音楽療法学会による定義を一部改変)という定義に適う、本格的な音楽療法を導入する医療機関や福祉施設が日本国内でも増えてきました。それに伴って、日本でもさまざまな分野で、音楽の効果を科学的に検証する試みが増えています。

 音楽療法を現場で実践する音楽家や介護士、医師や看護師、専門の研究者などが構成メンバーとなっている「日本音楽療法学会」も会員数が6、000名を超え、国内でも規模の大きな学会のひとつとなっています。この学会では、「音楽療法士」の資格を認定する試験を毎年行ってきており、すでに全国で1、600人を超える音楽療法士が誕生し、各分野で本格的な音楽療法を実践しています。


私たちは音楽の効果を知っている?


 行進曲のような活気のある音楽を聴くと、気分が高揚し、穏やかで静かな曲を聴くと、気持ちが落ち着くなど、音楽が気分や感情に影響することは、誰しも主観的な経験として、知っていることでしょう。むしろ私たちは、そのことを期待して音楽を聴くことが多いとも言えるでしょう。そして、その結果として、気分や感情がポジティブになれば、周囲で起きる物事のプラス面に目が向いて、肯定的な考えが生じ、また、ポジティブな行動をとるようになると思われます。これは心理学の分野で、認知や行動のあり方が気分や感情と一致するようになるという意味で、「気分(感情)一致効果」と呼ばれて、盛んに研究されている心理現象のひとつですが、音楽を聴く人が意識するにしろ、しないにしろ、音楽は気分一致行動をもたらすための極めて効率的な手段だと考えることができます。

 このように、人々は経験的に音楽の効用を承知しており、それを自覚的に、あるいは無自覚的に生活の中で生かしていこうとしてきたように思われます。しかし客観的な事実として、音楽は一体どのような効果をもっていると言えるのでしょうか。そこで次に、学術的な研究例なども参考にしながら、この問題について、考えを深めてみたいと思います。


「モーツァルト効果」は検証されたか?


 比較的新しい事柄として、いわゆる「モーツァルト効果」は、一般の人にも良く知られた話題ではないでしょうか。これはアメリカのラウシャーという学者が大学生を対象として、モーツァルト作曲の「2台のピアノのためのソナタ(ニ長調、K.448)」を10分間ほど聴かせた後、ある種の知能検査を実施したところ、大学生たちの(空間的な認知能力に関する)知能レベルが10%ほど向上したことから名付けられたものです。この研究論文は国際的に権威のある「ネイチャー」(1993年)という科学雑誌に掲載されており、科学的に適切な方法を用いて行われた、信頼できる研究だと言えます。アメリカではこの研究が発表された後、暫くの間、家庭や学校で、子どもたちにモーツァルトの曲を沢山聴かせるという一大ブームが巻き起こったようです。

 しかし、このモーツァルト効果については、その後多くの追試的な研究が行われて、その効果のほどについては、必ずしも一貫性がないことも分かっており、例外の無い確かな事実というわけにはいかないようです。モーツァルト効果に限らず、一般に音楽が人に及ぼす心理的・生理的効果については、専門の研究者たちによって、これまで沢山の科学的・学術的な研究が行われてきており、それらは音楽療法や心理学、医学、看護学などの、いろいろな学問分野の学術雑誌に掲載され、報告されています。


実験法を用いた研究の具体例


 富山大学人文学部の心理学研究室でも、音楽が心身の機能に及ぼす効果について、種々の角度から研究を行っていますが、そのひとつとして、音楽のストレス解消効果について、実験法を用いて調べた研究を紹介します。この研究では、まず、実験参加者(被験者)のストレスを高める事態を設けます。TSST法と呼ばれる方法に従い、まず参加者には企業面接場面を想定して、自己アピールのスピーチをしてもらい、その後、難しい暗算課題(1022から13ずつ引き算した値を答える)を与えます。この手続きによって、参加者のストレスはいやがうえにも高まり、緊張や不安、抑うつ感なども強まると考えられます。

 この研究では、心理的なストレス度に加えて、生理的なストレス度を見るために、副腎から分泌されるコルチゾールという一種のストレスホルモンを測定します。コルチゾールの血中濃度はストレスが高まると増加し、それに比例して唾液中の濃度も増加することが分かっています。

 研究では、TSST法というストレス負荷課題によって高まったストレスが、音楽を聴くと、聴かない場合よりも速く解消するかどうかを、時間の流れにそって調べることにしました。心理的ストレス度は心理検査によって、また、生理的ストレス度は、唾液中のコルチゾール濃度によって計測しました。聴取音楽は先行の研究で心が安らぐと判断された曲を使用しました。実験の結果は次のように集約できます。 @「心理的ストレス度」はストレス負荷課題の終了後、時間の経過とともに、音楽条件でも音楽なし(安静休憩)条件でも比較的速やかに低下するが、その低下の速度は、音楽条件の方が大きく、音楽による「ストレス解消効果」が顕著に見られること。 A「生理的なストレス度」(コルチゾール濃度)については、ストレス負荷課題の終了後、暫くの間は増加傾向が見られ、音楽聴取や休憩後に明確なストレスの低下は見られないが、音楽聴取条件の方が、ストレスの増加が緩やかで、音楽による「ストレスの抑制効果」が見られること。


なぜ「音楽」療法なのか


 富山大学で行われた研究のひとつを少し詳しく紹介しました。このように、単に経験的に知られている音楽の効果や効用を、厳密に科学的な手法で測定し、その効果のあり方や限界を明確に示すことが、この分野では特に求められています。それは音楽療法を根拠(エヴィデンス)に基づいた、心身の障害や病気の治療法(すなわちEBM)として確立するためにはどうしても必要なことだからです。

 では、なぜカウンセリングのように、言葉を媒介手段とした心理療法ではなく、「音楽」療法なのでしょうか。それは会話を主体とした心理療法において中心的役割を果たす言語とは異なる、多くの優れた特徴を音楽がもっているからだと言えるでしょう。以下にそのような特徴をいくつか挙げてみます。

@最近の神経学的な研究が明らかにしているように、音楽は脳の感情中枢に短時間で強く作用し、その作用は感情中枢のみでなく、大脳の言語領野などを含む広い範囲に及ぶ。
A音楽は種類によって、沈んだ気持ちを速やかに活性化する一方で、興奮した気持ちを鎮静化するというように、感情的な活性のレベルを効率よく「調整」する働きをもつ。
B音楽は「感情の言語」と言われるように、言葉や知性とは異なり、感情そのものを、より直接的にかつ「コントロール」しながら表現する方法となる。
C感覚的、感性的なレベルで、美しいものを味わうという喜びや満足感をもたらす。
D知的障害があって言葉がうまく使えない人や、自閉症などのために人間関係の場で言葉が殆ど役に立たないような人にとっても、音楽は豊かな自己表現やコミュニケーションの手段となり得る。


音楽は自由な世界へといざない、癒す


 このように、音楽は独特の優れた特性を備えているので、専門の音楽療法士が対象者のために適切に選択し、処方した音楽活動を、計画的に行えば、言葉に頼るカウンセリングとは異なる面から、こころの障害等の改善により良い効果を上げるかもしれません。音楽というものは、さまざまな使用上の約束事に縛られた言葉に比べて、極めて自由度の高い柔軟な表現と、感性によるある種の認識を可能にする媒体だと言えるのではないでしょうか。ひとつのメロディーが、喜びも哀しみも同時に表現し、感じさせることさえあるかもしれません。音楽は、そのような意味で、用い方に社会的なルールが染みついた日常言語とは本質的に異なる「自由のメディア」かもしれません。障害や病気があるといわれる方も、健常者といわれる方も共に、大いに「音楽」して、この世のさまざまなしがらみから、こころとからだを解放し、癒されてみたいと思いませんか?


●筆者紹介
富山大学人文学部教授(心理学・音楽療法士) 海老原 直邦 氏


●日本音楽療法学会
 音楽療法士は、音楽療法の啓発・普及および資質向上を目指す日本音楽療法学会が認定している資格です。現在、同学会では国家認定化を目指し働きかけを行っています。
 左の写真は、平成18年6月に富山国際会議場で開催された「日本音楽療法学会信越・北陸支部第4回学術大会」の様子です。平成23年9月の全国大会は、富山で開催されることになっています。

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