会報「商工とやま」平成21年8・9月号
特集1
「医食同源」玄米で人々を健康にしたい。
富山から全国、世界へ、新しい農業経営を目指して。
今回は、当所初の農業事業者会員である「若葉農業合同会社」をご紹介します。無農薬の米栽培、富山市西町のカレー店経営、餅や薬膳カレーといった商品のブランド戦略など、独自のセンスと経営哲学で、農業経営の新境地を切り開く、同社業務執行社員の若木重昭氏にお話を伺いました。
大震災で変わった人生観
富山市浜黒崎で生まれ育った若木氏は大学卒業後、大阪で佐川急便に入社。9年間勤めた後、東大阪市で独立起業。不動産賃貸業、ファミコンショップ、カレーショップ経営などで成功していました。当時は商売がうまくいき、若気の至りでとにかく金儲け一筋でした。しかし、平成7年に発生した阪神・淡路大震災で、若木氏の人生観は大きく変わります。
「人間がどんなに物質的な文明を築いても、わずか3秒ですべてが破壊されてしまうわけですからね」。
一本3、000円の焼き芋
若木氏は震災直後、神戸へ援助物資を運ぶその途中で見た光景に衝撃を受けます。崩壊した高速道路やビルはもちろん、何より驚いたのは、焼き芋を一本3、000円で売っていた人がいたことでした。
「身を呈して、救援活動をしている人がいるなかで、人間とは一体どういう生き物なのかと目を疑いました。と同時に、焼き芋3、000円ほどではないにしても、振り返れば私にも良く似たところがあったんじゃないかと思わせられました。いつ死ぬかわからない命ですから、子々孫々のために、少しは何か役立つようなことをしたいと考えました。臨終の悔い改めに近いものがありましたね」。
若木氏は、震災前から知人の病気や、家族の体調不良、子供たちの不登校などの問題から、カウンセリングの勉強をしたり、玄米や野菜中心の食生活について医師から指導を受けていました。家族への思いや、震災という大きな体験をきっかけに、人の役に立ち、人を健康にする安全な食べ物を作ろうと志し、富山へ戻り農業の道への転身を決めたのです。
融資が受けられない
浜黒崎で400年続く農家の三男として育った若木氏ですから、農業を始めるにあたって精神的なハードルはありません。「反対する家族を説得し、市や県などにも何度も足を運んで自分の考えを説明したり、資金面でも十分な準備をしたつもり」で、約2年間の準備の後、帰郷。平成9年、浜黒崎で無農薬の玄米づくりを始めます。しかし、ここで思わぬ困難にぶつかります。閉鎖的な富山の風土や、「大阪の商売人が、農業で一儲けしようとしているんだろ」という冷たい反応で、実際に事業を立ち上げてみると、期待していた融資を受けることが難しく、予想に反し、すべて自己資金でのスタートとなりました。
「やがて家族みんなの貯金を使い果たし、極限の貧乏状態になってしまいました。それでも私には玄米で人々を健康にしたいという強い思いがありましたから、農業をやめなかったんです」。
合鴨農法での米づくり
一方で、若木氏は小学校時代の恩師の田んぼを中心に、3・5haの農地を借りることができ、合鴨農法による無農薬の米づくりを開始。合鴨農法に取り組む福岡の古野隆雄氏の本やビデオを頼りに、手探りで奮闘します。
「大学時代から農薬やダイオキシンについて勉強し、その恐ろしさを知っていましたし、日本の食料の自給率の低さを、なんとかしたいという思いがありました」。
しかし、周囲からの反発や規制も強く、収穫した無農薬米を取り扱ってくれないという大きな軋轢もありました。
「制度や法的な問題というよりも、新しいものや外からのものを受け入れてもらえないという、感情的な難しさがありましたね」。
閉鎖的な富山で、多くの困難があったと語る若木氏。その後、年月を経て、やがて周囲の人にも合鴨農法の良さや、そのお米のおいしさが受け入れられるようになり、農地は約18 haにまで広がっていきました。
牧草を使った新農法に挑戦
合鴨農法を続けてきた若木氏ですが、年々、カラスやハクビシン等による被害が増え続け、昨年ついに合鴨が全滅。そこで新聞記事で知った県立中央農業高校に相談し、今年から「ヘアリーベッチ」という牧草を使った農法に取り組んでいます。
秋にヘアリーベッチの種を田起こしした田んぼにまき、春には表面の草を刈り取って、そのまま水を張って稲の苗を植えます。ヘアリーベッチは水に弱く枯れますが、根が残っている間は、アレロパシーという、他の植物の生長を抑える物質を出すため、雑草が生えなくなります。また、ヘアリーベッチそのものが緑肥となり、農薬や化学肥料を使用せずに栽培できるようになります。
今は一部の田んぼでの実験段階で、まだまだ改良の余地があると見込んでいます。
「米の販売価格を10とすると、実は、そのうち4割は農薬と化学肥料で占めているのが実情。これがうまくいけば、手間や費用を最小限にした、安全な米づくりができることになり、大変な収益改善となります」。
医食同源と地産地消
最近の地産地消への動きについて若木氏は、基本的には良いことだが、あまりにもブームになりすぎて、薄っぺらな地産地消になっているのではないかと懸念しています。
「医食同源は、仏教で言う、人と土は一体であるという意味の身土不二で、大変、奥の深いもの。本来は人間が自然破壊をやめることから地産地消が始まるのだと思いますね」。
多彩な事業展開
若木氏は、平成10年からは、母親が長年営んできた「わか木餅店」を手伝い、商品開発やブランド戦略などを手がけ、売り上げを飛躍的に伸ばしています。さらに、平成14年には、富山市上本町にネパール料理店「ちゃとりかとり」(現・西町カレー)をオープン。無農薬の玄米をおいしく食べてもらうため、カレーと組み合わせた「玄米ごはん&薬膳カレー」を中心としたメニューで好評を得ています。今後は、相手先ブランドでのレトルトの薬膳カレーの販売にも取り組む予定です。
また、同社のグループ会社・アジア貿易合同会社は、神戸の商社から全面的な協力を得て、パリのスーパーと提携し、お米の輸出契約を締結しました。減反政策下にあっても、輸出米は転作として認められるため、休耕や他の作物を作る必要がありません。米作りだけに集中できるので作業効率が上がり、投下資本も少なくて済むという大きなメリットがあります。
そして、若木氏が今後の大きな目標として掲げるのが米粉を使った商品開発です。
「米粉製品やそのノウハウで世界を目指したいですね。最終的には玄米のおいしいパンができれば、私の目標はほぼ達成です」。
ちょうど大阪に米粉パン専門店の出店が決まり、そこから京都駅前のホテルへの卸契約もまとまったところで、今後の更なる事業展開に期待が高まります。
ビジネス交流で新たなチャンスを
農業は、収益性を考えると、企業人にとっては魅力的ではないと語る若木氏。
「しかし、私には、玄米で人々を健康にしたい、本来の姿をとり戻してほしいという夢があります。そのためには、何が何でも会社をつぶさないことが大事。そのためにも、勉強が一番必要だと思っています。将来農業に取り組みたい若い人にも、一時の流行ではなく、何をしたいのか、何ができるのか、目標をはっきりさせて頑張ってほしいですね。そして、私自身、ビジネス交流会などに積極的に参加して、様々な企業との交流や連携をはかり、チャンスを広げていきたいと考えています」。
おいしく、安全な玄米の普及を目指す若木氏の飽くなき挑戦は、今後もさらに続きます。当所では8月26日(水)に、「連携〜ネットワークを構築し、未来を拓こう〜」をテーマにビジネス交流会を開催します。皆さんも、ぜひ、多彩な企業と交流し、新しいビジネスチャンスをここで見つけてみませんか。