会報「商工とやま」平成22年1月号

新春特別企画。平成21年度創業100年企業顕彰 その(3) おもてなしの心を、次世代に伝えたい。
株式会社 源


 富山にも数多くある老舗企業。今年度、当所が顕彰した創業100年になる会員事業所4社を順にご紹介しています。今回はその3回目です。


 富山の食文化を代表する名産「ますのすし」で、全国的な人気と知名度を誇る株式会社源。長く愛される商品づくりの秘密とは。そして、次代に向けて新たにスタートした取り組みについて、代表取締役社長の源八郎氏にお話を伺いました。


桜木町の料理旅館「天人楼」


 「江戸時代には旅篭町で旅館と紙を商っていたという記録が残っています。その後、北新町で吉川屋という料理旅館を営み、明治6年頃に富山城の千歳御殿跡地にできた桜木町に来たようです」と話す八郎氏。

 明治21年発行の中越商工便覧には、初代金一郎氏の料理旅館「天人楼」の、堂々とした風格ある佇まいが2ページにわたって紹介されています。商工便覧とは、富山市内の大店や有力企業が掲載された企業ガイドブックのことです。絵には、贅を尽くした美しい店構えが描かれていて、往時の天人楼の繁盛振りがうかがえます。

 その後、明治32年の大火で桜木町は全焼してしまいますが、金一郎氏は1年もたたずに桜木町に戻り、新しい感覚の料理旅館「富山ホテル」を開業します。


富山駅での駅弁販売の始まり


 やがて、明治41年に北陸線富山駅が現在の場所で開業すると、新たなビジネスチャンスを求めて、富山ホテルは富山駅で初めて構内営業と駅弁の立ち売りを始める許可を得ます。現在の「源」の歴史が、いよいよここからスタートしたのです。


富山ホテル支店の開業


 大正元年には、富山駅前に富山ホテル支店を設立し、二代目の九丸氏が家業を継ぎます。しかし、駅弁の売れ行きは芳しくありませんでした。当時はまだ、弁当を買って列車で食べるという習慣がなかったことや、列車の本数も少なかったことなどが不振の理由と考えられます。

 「明治の創業から大正にかけては、経営は本当に厳しく、弁当よりもむしろ、あんころ餅がよく売れたと聞いています」

 現社長・八郎氏の父で、三代目の初太郎氏が跡を継いだ昭和10年頃からようやく駅弁が売れ始め、昭和16年頃からは、富山駅から出征する兵士用の軍隊弁当づくりを手掛けるようになり、経営も軌道に乗りました。


納得できるものづくりを


 戦後、初太郎氏は人一倍の研究熱心さで、納得できるものづくりに情熱を傾けます。

 「父は翌日の仕出しや折詰めなどの献立表を確認し、メインとなる料理は、味付けや盛り付けについても、必ず自分でチェックしていました。納得できなければ作り直させるなど、実に細かく指示していましたね」

 初太郎氏が吟味した、仕出し料理や折詰めの豪華さ、素晴しさは、やがて評判となり、富山ホテル支店の料理は、結婚式や法事、ダムの竣工式などに、なくてはならないものとなっていきます。

 「注文の数が多い時には、調理人や家族はもちろん、仕入れ先の人も総動員して仕上げたものです」


お客様に喜んでいただきたくて


 初太郎氏は全国の構内営業人の集まりには欠かさず出席し、その旅の途中で温泉宿に泊まり、そこを定宿とする陶芸家や画家など、芸術家らと交流を深めます。各地の料理を食べ、骨董や書、絵画など、一流の美と技に触れることで審美眼を磨いたのです。多くの交流の中で得た経験や美意識は、質の高いものづくりにも生かされていきました。

 「少しでも質の高い、いいものを作り、お客さんに喜んでいただきたいという父の思いは、今日まで源のものづくりの大きなテーマとして受け継がれています」


源の「ますのすし」へ


 昭和28年には、大阪の高島屋で開かれた全国の観光とうまいもの大会に参加。昭和30年代には、人々の暮らしにもゆとりが生まれ、駅弁「ますのすし」は、デパートなどでお土産や贈答用として人気となっていきます。

 昭和37年には社名を「源」に変更し、株式会社へ。昭和39年には下新本町に本社と調理工場が完成し、「ますのすし」が本格的に作られるようになりました。ますの冷凍技術の進歩や、北陸線の複線電化などによる時代の追い風もあり、人海戦術でも追いつかない程、「ますのすし」は爆発的に売れるようになります。そのため「ますのすし」伝統の味の良さを失わずに量産するための工夫が、その後、積み重ねられていくことになりました。


中川一政氏の絵と文字のパッケージ


 源の「ますのすし」が全国ブランドとなった要因の一つに、そのパッケージの斬新さがあります。中川一政画伯による迫力のある絵と文字が最初に登場したのは昭和40年のこと。シンプルでインパクトのある、お洒落なパッケージによって、贈答品としても買い求める人が増えたのです。

 「現在まで、何度もパッケージ・デザインの変更を試みて、著名な方にお願いしてみたのですが、やはり、皆さんに愛されてきたこのデザインを超えるものはできないですね」


食材を求めて世界へ


 需要が急増する一方で、神通川のサクラマス漁はダム建設などで激減。八郎氏は、ますのすしにふさわしい食材を求めて、国内だけでなく、アラスカやアイスランドなど世界各地へ自ら足を運びました。

 現在も食材の鮮度管理や加工について、主な魚の輸入国であるアイスランドの産地へ直接出向いて細かな指示をするとのこと。

 「現地で生産者の顔を見て、自分の目と舌で品質を確かめることを大切にしている」と語る八郎氏。父から受継いだ、探究心や納得できるものづくりの精神を引き継ぎ、源ならではの伝統の味を守っています。


おもてなしの心を、次世代へつなぐ


 昨今は、居酒屋チェーンなどが増え、料理の世界でも、いい職人が育ちにくい環境にあるといいます。そんな中、ものづくりの技だけでなく、心の大切さを次世代に伝えたいと、源ではこの春から、若手社員が中心となった新たな取り組み「おもてなしのプロジェクト」がスタートしています。

 これは、旅人へのおもてなしや、人と人との温かなふれあいなど、先人が築いた源の「心」を再確認するための取り組みです。このプロジェクトを中心に、お客様にいかに喜んでいただくか、楽しんでいただくかを基本テーマに、新しい商品開発や店舗づくりなどが話し合われています。


ミュージアムオープンと新展開


 春には、県内のホテルの支配人や報道関係者を招いて、新作のおすしや、お弁当をピーアール。さらに、9月には、ますのすしの情報発信基地として歴史などを紹介したミュージアムがオープン。併設されたレストランでは、予約なしに食べられるランチの御膳が登場して人気を集めています。また、ミニサイズのますのすし「小丸」も発売され、これまで以上に、県内や全国のお客様に楽しんでもらうためのさまざまな仕掛けが好評を得ています。

 「101年目の新たなスタートの年として、おもてなしの心を大切に、みなさんに心から楽しんでいただける商品づくりやサービスを目指していきたいですね。そして、ものづくりにはやはり愛情がないといけません。お母さんの手作り弁当は、まさに愛情がつまった料理。私たちが作るお弁当やますのすしも、美しさや、味、品質の良さはもちろんのこと、愛情や温もりを感じていただけるよう、日々努力精進していきたいと思っています」

 八郎氏は、高校時代からサッカーを始め、現在は富山市サッカー協会の会長、富山県サッカー協会の副会長を務めるスポーツマンでもあります。抜群のフットワークと、時代を読む優れたセンスで、同社はいま、新しい時代を切り開こうとしています。

 モットーは「すべてに対して誠実であること、そして、己を知り謙虚であること」と話す八郎氏。時代は変わっても、ものづくりに真摯に取り組む誠実な心と姿勢は、これからも同社のすべての商品やサービスに反映されていきます。

 食べた人の心に温かな灯をともす、お弁当やますのすしを目指して、今日も富山から全国の人々へと、心を込めて作られた商品が届けられていきます。

株式会社 源

●主な社歴
明治41年(1908) 初代・金一郎氏創業の富山ホテルが富山駅構内営業、駅弁の販売を許可される。
大正元年(1912) 富山駅前に富山ホテル支店を設立。二代目・九丸氏が家業継承し旅館業と駅弁販売を始める。
昭和10年(1935) 三代目・初太郎氏が家業継承
昭和37年(1962) 会社組織を変更し、株式会社源発足
昭和41年(1966) 高岡ステーションビル店オープン
昭和62年(1987) 新保企業団地内に本社・本店・工場完成移転
平成元年(1989) 四代目・浩氏が代表取締役社長に就任
平成8年(1996) 本店見学コース内に伝承館オープン
平成11年(1999) 五代目・八郎氏が代表取締役社長に就任
平成14年(2002) JR富山駅におむすび屋源オープン
平成17年(2005) JR金沢駅に金沢百番街店オープン
平成21年9月(2009) ますのすしミュージアムオープン

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