「商工とやま」平成25年12月号
特別寄稿    〜当所トルコ・オーストリア産業経済視察報告〜
     
  「アジアとヨーロッパの歴史と文化が
    交錯する国トルコとハプスブルグ家の
      帝都オーストリア・ウィーンを訪ねて」

 当所は、平成25年9月20日から9日間、トルコ・オーストリア産業経済視察団(団長/犬島伸一郎当所前会頭)を派遣した。

 今回は、欧州債務危機問題等の深刻な影響を受けている周辺諸国の中で、比較的経済が安定している両国の経済政策、観光振興等に対する取り組みを中心に視察した。ローマ帝国からオスマン帝国までの長きにわたり首都であったイスタンブールから太古の記憶を宿す奇岩の大地カッパドキアへ。そして中欧文化の中心地として栄え、芸術を何よりも愛した音楽の都ウィーンを回り9月28日に帰国した。



■トルコ概況

 トルコ共和国は、西アジアのアナトリア半島と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨーロッパの2つの大陸にまたがる共和国。首都はアナトリア中央部のアンカラ。北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシャと、東でグルジア、アルメニア、イラン、イラク、シリアの7カ国と接する。人口は約7千5百万人で、面積は約77万Iと日本の約2倍である。(時差マイナス7時間)

 気候はと言えば、イスタンブールのあるマルマラ海周辺は地中海性気候と温暖湿潤気候の中間位で、地中海に面した地域は、温暖な地中海性気候、国土の大半を占める内陸部は大陸性気候で寒暖の差が激しく、夏は乾燥していて非常に暑くなるが、冬季は積雪も多く、気温がマイナス20度以下になることも珍しくない。

 トルコの産業は、GDPが7290億ドル(約60兆円、2010年)と世界第17位で、近代化が進められた工業(軽工業)・商業と、伝統的な農業とからなり、農業人口が国民のおよそ40%を占める。漁業も沿岸部では比較的盛んである。世界第2位の生産量を占める毛織物のほか、毛糸、綿糸、綿織物、化学繊維などの生産量がいずれも世界の上位10位内に含まれており、衣料品を輸出し、鉱物性燃料、機械類を輸入するという構造である。



■イスタンブール

 最初に訪問したイスタンブールは、紀元前ビュザンティオンとして創建された後、コンスタンティノープルとして再建され、ローマ帝国、ビザンティン、ラテン帝国、オスマン帝国と16世紀にわたり4つの帝国の首都であった。その後、現在のイスタンブールという呼称になった。人口1350万人のヨーロッパ最大規模の都市である。

 まず、旧市街にあるブルー・モスクとアヤソフィアを見学した。1616年に完成したブルー・モスク(正式名称 スルタンアメフット・ジャミィ)

は世界で唯一6本のミナレットを持つモスクで、内部に使われている青いイズミックタイルとステンドグラスの光がおりなす美しさに感激した。このモスクでは現在も礼拝が行われており、団員の女性は、スカーフを頭に巻いてから中に入った。

 その後、徒歩で隣接するアヤソフィアへ。ギリシャ正教の総本山として360年に建てられ、1650年にわたり歴史的瞬間を見守り続けたビザンチン聖堂の大傑作である。2回の焼失と再建を繰り返し、また、モザイク画が塗りつぶされたり、修復されたりなど宗教に翻弄されながらも現在は博物館として多くの人が訪れている。

 続いてグランドバザール、トプカプ宮殿をまわった後、宮殿をホテルとして利用しているチュラーンパレスホテルに向かった。

◎YKKトルコ社本田社長の講演
 チュラーンパレスの会議室にてYKKトルコ社本田社長に講演いただいた。1991年にトルコに進出し、現在470名近くの社員が働いているが、日本人はわずか6名しかいない。週45時間労働が基本で、交代制となっており、トルコ国民は、勤勉且つ真面目で、欠勤率が低い。また、残業を厭わないので超過勤務時間は年270時間と欧州人とは異なるメンタリティーを持っているとの事。新入社員の給料は、日本円で月13万円位が一般的で、富山からは不二越などが進出しており、全体で120社以上の日系企業が活動している。

 ここトルコ社では、欧州向けに生産しているジーンズ顧客向けのファスナーを中心に生産している。8年にわたりトルコ社を見てきた本田社長は、労組もなく、品質に対する意識が非常に高い国民性から中東地域の拠点となりうる可能性もあるが、近年、もっと人件費の安い国で工場が建設されている事を危惧されていた。また、YKK創業者故吉田忠雄氏の「善の循環」について定期的にセミナーを開催するなどして、日本的な考えを現地の人に理解してもらえるよう努力しているとも語った。

◎ボスフォラス海峡クルーズ
 翌朝、われわれは、ボスフォラス海峡クルーズに出かけた。少し雨が降っていたが、出港するとぴたりと止んだ。心地よい風に真っ青な海。ブルーモスクや宮殿の数々。欧州側とアジア側で違った顔を見せる建物。なんとも不思議に調和して独特の雰囲気を映しだしていた。この海峡は上の流れと下の流れが逆で、日本の大成建設が地下鉄用海底トンネルの工事を行っており、ようやく10月末に完成した。この海底トンネルができたことで旧市街の交通渋滞が緩和できると期待されている。

 その後、エジプシャンバザール、地下宮殿を見学したのち、空路でカイセリ空港に着いた。ここは標高1300mと高く、シルクロードの途中基地だった場所で、われわれはバスでカッパドキアに向かった。



■奇岩の大パノラマカッパドキア

 カッパドキアとは純血の馬という意味。ここの地層は、数千年前に繰り返し起きた火山の噴火により、火山灰と溶岩が積み重なってできている。やがて雨や湧水、川の流れによって地層が浸食されていくが、軟らかい凝灰岩層は早く削られ、固い溶岩層は浸食が遅い。そのため、キノコ岩のような不思議な形の岩が生まれたという。また、年間降雨量が750@とほとんど雨が降らないところで、それゆえ奇岩が守られている。

◎ネヴシェヒル観光協会
 最初にネヴシェヒル観光協会を訪ねた。ベレッティン・ビリンズ事務局長がわれわれを迎えてくれた。直前に起こった悲しい事件に言及し、遺族はもとより日本国民に対し、本当に申し訳ないとお詫びの言葉を述べ、こういう事件は二度と起こさないので、安心してカッパドキアに来てほしいと言われた。

 その後、キリスト教徒がアラブ人の迫害から逃げる為に造ったと言われる地下8階のカイマクル地下都市、フレスコ画が残る岩窟教会のギョレメ野外博物館を見学して、キノコ岩が谷一面に立ち並ぶパシャバーに着いた。「妖精の煙突」とも呼ばれるキノコ岩を間近に見、自然と年月の偉大さに感動した。

 われわれが、宿泊したホテルは、もともと現地の人々が住居としていた洞窟を改修したもので、比較的暖かく、同じ形の部屋が一つもない。興味のある方は、是非、お試しあれ。

◎熱気球ツアー
 いよいよメインイベント。翌日、朝5時45分にホテルを出発し、熱気球ツアーへと向かった。かつて死亡事故が報道されており、多少の不安があったが、バルーンに乗って空中に浮かんだ瞬間、大自然の荘厳な景色と感動で、その不安は泡がはじけるごとく消え去った。なんと美しいことか。20人を乗せた熱気球がみるみるうちに上空に昇り、眼下に奇岩の大地が朝日に照らされて、様々な色の100機に及ぶバルーンの競演。あっという間の1時間であった。われわれは、この感動を持ったままウィーンへ向かった。



■オーストリア概況

 ヨーロッパのほぼ中央に位置し、8つの国と国境を接しており、9つの州からなる連邦国家。紀元前にハルシュタット文明が発祥した後、ローマ帝国などによる支配を経て13世紀にハプスブルグ家が台頭。華麗な宮廷文化のもと音楽、美術、建築分野でヨーロッパを牽引する存在となる。1918年、ハプスブルグ家の崩壊により約640年間に及ぶ統治が終結。第一次、第二次世界大戦の波乱を経て、永世中立国となる。面積は約8・4万Iと北海道とほぼ同じで人口約842万人。気候は湿度の低い大陸性気候で山岳地帯が多いため、冬は厳しい寒さが続く。

 産業は、観光業、不動産業などの3次産業が全体の7割を占め、残り3割が2次産業、1次産業は1%しかない。また、GDPはリーマンショックで一時マイナスとなったが、ここ3年はプラス成長しており、一人当たりのGDPはEU内3位で世界トップクラスである。



■ウィーン

 ウィーン国際空港からバスで約1時間、リング(環状道路)内側の旧市街にあるグランド・ホテル・ウィーンに着いた。このホテルは和食レストランもあり、久々のご飯とみそ汁は、ありがたかった。

◎在オーストリア日本国大使館
 まず、ウィーン市内にある在オーストリア日本国大使館を訪問し、山口参事官からレクチャーを受けた。

 オーストリアは観光立国・文化立国の国で、シェーンブルグ宮殿などの建築物、チロルの山など美しい自然景観、モーツァルト、クリムト(画家)など観光・音楽・文化の魅力ある素材が豊富で、第三の国連都市ウィーンを首都とし、中・東欧諸国、特にドイツとの結びつきが強い。また、食料自給率が高く、電力は水力7割、火力3割で反原発国家だそうだ。教育水準は、やや低く、労使協調型で、失業率はEUの中で最も低い。

 昨年、日本からは観光で26万人が訪れた。

◎世界遺産シェーンブルン宮殿
 大使館を後にし、シェーンブルン宮殿へ向かう道すがら、マリア・テレジア広場へ降り立ち銅像を見たり、車窓からオペラハウスを見たりした。ウィーンの旧市街には様々なデザインのトラム(LRT)が、短い時間間隔で走っており、公共交通の利便性がとても優れているのがすぐ分かった。

 世界遺産シェーンブルン宮殿は、「パリのベルサイユ宮殿に匹敵する離宮を」というレオポルト1世の命で1696年に着工されたが途中中断、マリア・テレジアの時代に大規模な改築がなされ、1749年完成した。ナポレオンの占領やウィーン会議など、数々の歴史の舞台となった。

 その後、南東部のベルべデーレ宮殿へ向かった。バロック様式の宮殿で庭園が非常にきれいに整備されている。上宮にある美術館に展示してあるクリムトの「接吻」の前で動けなくなった。恥ずかしながら、クリムトという名前すらも知らなかったが、構図、金地の背景や市松模様を形作る四角形など、どれをとっても驚くばかりであった。

 この日の夕食は、ウィーン最古のレストラン「グリーヒェンバイスル」。1500年代創業で天井がベートーベンやモーツァルトなどの直筆サインで埋め尽くされている部屋「マーク・トゥエイン」の間で運よく食事することができた。この部屋で食べた「ウィーンナーシュニッツェル」の味は一生忘れることがないだろう。

 夕食後、オプションでウィーン楽友協会ホールでのモーツァルトコンサートがあった。参加した方々からはとても満足したという声が多く聞かれた。

◎ウィーンの森
 翌日、自然豊かなウィーンの森へ向かった。最初に皇妃エリザベートの長男ルドルフ皇太子が心中したマイヤーリンク礼拝堂を訪ねた。その後ハイリゲンクロイツ修道院を見学し、旧市街に戻って美術史博物館に入った。ハプスブルグ家の膨大なコレクションを収蔵するヨーロッパ屈指の博物館。フェルメール、レンブラント、ブリューゲルなど巨匠の作品が数多く展示されており、もう少しゆっくりと見たかったという思いがした。

 明日出発となるこの日は、夕食後ホテル近くのシュタットホイリゲ(居酒屋)に行った。ビールを飲んでいるとアコーディオンを担いだ人がテーブルに来て、話しかけてきた。日本の歌をリクエストすると、「さくら さくら」「上を向いて歩こう」を弾いてくれた。その後、モーツァルトの曲などいろいろ演奏してくれ、ウィーン最後の夜を飾ってくれた。

 最終日、ウィーン国際空港からオーストリア航空にて11時間余りのフライトで成田に無事到着した。

 イスタンブール、カッパドキア、ウィーンと9日間の産業経済視察はあっというまの出来事だった。




■海外視察を振り返って

 私にとっては初めての海外という事もあり、出発の2ヵ月前から緊張が続いた。しかし、いざ着いてみると、不安より驚きと楽しさで、アドレナリンが出っぱなしの日々であった。

 トルコは、1890年のエルトゥールル号座礁事件から日本に対して非常に友好的として知られており、実際行ってみても随所にそううかがえた。また、現地ガイドのアルプさんによると、トルコ人にも蒙古斑があり、日本人と祖先は同じであるということだった。

 イスタンブールでは、慢性的に交通渋滞がおこっており、そのなかを新旧の路面電車がたくさんの人を乗せて走っていた。どこへ行っても人、人、人。本当にエキゾティックでパワフルな街であった。

 大きなトルコ国旗がいたる所で掲げられていた。クルド民族や言語などさまざまな問題を抱えているトルコにとって、唯一、国旗だけが国民意識を結集できるものなのだそうだ。

 ちょっと気になったのは、日本からの観光客に対する商売が少しえげつない感じがしたことだ。

 それに引き換えウィーンは紳士的で、時間がゆっくり流れている気がした。治安が良いと聞いていたが、まさしくその通りで、一人で出歩いても全く怖くなかった。リング内は非常にわかりやすく、道に迷うこともなかった。トラムやバス、地下鉄など公共交通が整備され、いたるところにカフェやスーパーがあり、住みやすい成熟した街という印象であった。

 また、両国とも、ドイツ車が非常に多かった。トルコはベンツ、ウィーンはワーゲン。日本車はほんの数台しか走っておらず、ドイツとのつながりの深さが良く分かった。

 最後に、今回視察した2カ国には、文化、建築、芸術どれをとっても到底及ばない。だが、富山市が推進する「歩いて暮らせるコンパクトなまちづくり」を支援する当所にとっては、非常に参考になる視察であった。


    報告者/富山商工会議所  企画総務部次長 大門 朗

▼商工とやま記事別INDEX | ▼戻る