会報「商工とやま」平成26年7月号

特集2 シリーズ/老舗企業に学ぶ13
一年を通して、新茶のおいしさを皆さまに
 株式会社中田保商店


 お茶の卸売業を営み、永年の実績と地域への貢献から、厚い信頼を得る株式会社中田保商店。日々の暮らしはもちろん、ビジネスの場面にも無くてはならない様々なお茶を取り扱っています。
 北陸でも大手として、新潟、長野、岐阜方面の小売り専門店や菓子店、食料品店、百貨店、大手量販店、官公庁、企業などに数多くの取引先を持ち、創業以来、112年にわたり街の発展を支えてきた同社。専務取締役の中田昌作さんにお話を伺いました。


明治35年に創業


 株式会社中田保商店は、明治35年創業。専務の中田昌作さんの祖母である中田よねさんが、個人創業したのが始まりです。

 「店の前の通りは、朝晩、不二越に勤める人達が大勢通っていた道。商売が好きだった祖母がよろずやを始め、当初はお茶だけでなく、食料品や生活雑貨など、様々な物を扱っていたようです」

 よねさんの長男で後に代表となる中田保さんは明治40年生まれ。保さんは、子どもの頃からよねさんを手伝っていました。

 「花を売って歩いたり、富山商業高校時代は学校から帰ると品物を補充したり、請求書を書いたり、注文を取りに回っていたようです」


お茶の専門店として販路を拡大


 保さんは高校を卒業後、まずは呉服の卸問屋で奉公。数年後には、家業を継ぎます。本格的にお茶の販売を手掛けるようになったのは、保さんの代からだそうです。

 「当初は大八車にお茶を積んで、舗装もされていない砂利道を運んだもの。八尾まで行くときも、途中、井戸水で一服しながら行ったものだと父はよく話していました。昔の商人は皆そうですが、努力の人ですね」

 保さんは大いに商才を発揮し、順調に商いを拡大。今日の同社の礎を築きました。当初は量り売りだったお茶を、北陸で初めて袋詰めにして販売。袋詰めすることによってお客も買いやすくなり、様々な店に置けるようになりました。戦前は、朝鮮、満州、北海道などにも販路を拡大していったそうです。

 「満州鉄道にお茶を納めるようになり、保の弟の良次郎は正月も満州に出かけていました。港に当社のレッテルを貼った茶箱が相当な数、積まれていたそうで、かなり多くのお茶を収めていたようです。良次郎は当時まだ珍しかったチョコレートなど、満州土産をたくさん持って帰ってきたことを覚えています」


富山連隊にも納入


 保さんは魚津出身の縫子さんと結婚し、9人の子供が誕生しました。現専務の昌作さんは次男で、昭和10年生まれ。戦時中の思い出を次のように語ります。

 「物資が不足し、食料統制があった時代、食料品を扱っていた店が食料品組合をつくり、お茶については当店が窓口になっていました。お茶の注文を取りまとめて小売り屋さんへ分けていたんです。また、現在の富山大学がある場所には富山連隊が置かれ、兵隊さんが荷車を何台も引いて、『お茶をいただきにきました』と店に来たものでした」

 富山大空襲のとき、昌作さんは10歳で小学5年生。母の縫子さんの実家がある魚津に疎開していました。

 「魚津のまちも危ないと言われ、角川の上流へ逃げながら、富山が真っ赤に燃える様子を見ていました。B29がぐるぐる回って焼夷弾を落としながら、あっと言う間に魚津のそばまで来ました。火事の炎が反射して、真っ赤な飛行機だったのを鮮明に覚えています」


富山大空襲後の再建、法人化へ


 富山大空襲に遭いながらも家族は皆無事で、焼け野原となった富山のまちで自宅と店舗を再建。魚津の材木屋さんの大きな倉庫を譲ってもらい、解体して富山まで運び建て直しました。辺りには建物が残っていなかったため、終戦直後の暑い夏の陽射しを避け、日陰を求めて、通りかかった人々が休んでいったそうです。

 そして、昭和23年には株式会社に法人化。昭和30年頃には、現在の社屋と住居を建設しました。

 保さんは建築やデザインが大好きだったそうで、応接室にはマントルピースが設けられるなど、内装にこだわり、モダンな作りとなっています。また、住居は総檜づくりで、座敷からは見事な庭を望むことができます。お茶のパッケージのデザインも、保さんが手掛けていたそうです。


地域のために尽くす多忙な日々


 昌作さんは、富山高校を卒業後、迷うことなく家業を継ぐことに。

 「私は小学校の頃からお茶屋になると決めていて、父もそれを大変喜んでいました。父は厳しい人でしたが、優しい面もありましたね。

 良く言っていたのが、お客さまに喜んでもらえるように真面目な商売をしなさいと言うこと。何か問題が起きた場合も、人に説明のできないことはするなと言っていましたね」

 保さんは人望も厚く、昭和47年から昭和54年まで富山商工会議所の副会頭を務めました。そのほか、富山テレビの三代目社長、全国茶業連合会の理事を務めるなど、非常に多忙な日々を送ります。永年にわたり地域やお茶業界の発展に尽くしたその功績から、勲三等を受章。また、現在まで続く全日本チンドンコンクールの発案者の一人でもありました。

 「父は様々な役をお引き受けしていましたから家を空けることが多く、必然的に息子達が会社の経営を担うことになりました。私が仕事を始めた頃も、とにかく忙しかったですね。

 昔は飛び込みの商売ですから、一軒一軒、お菓子屋さんや食料品店を地道に回ったもの。新潟や能登の先などは泊まりがけで行きました。移動が大変な時代、振り返るとよくこんなところまでと思う所もあります。今の営業の仕方とは全く違いますね」

 現在では交通事情も良くなり、産地の問屋さんが直接、各地へ営業する時代となりました。そして何より、価格の安さが求められるようになり、状況は大きく変化しています。


オリジナル健康茶が人気


 そんな中でも、同社では、お茶の専門店ならではの質の高いお茶を、信頼できる産地から取り寄せ、翠香園本舗というブランド名で販売しています。美味しいお茶は、やはり急須で入れるのが一番とのこと。また、緑茶に含まれるカテキンは抗酸化作用があり、健康維持にも効果があることで知られています。

 現在、翠香園本舗で人気の商品は「越中健康茶とやまへ逢いに」というオリジナル商品。富山県産六条大麦や、はと麦、大豆をベースに、そば、杜仲茶、桑の葉を独自の製法で焙煎してブレンドしています。とてもマイルドな風味と香ばしさがあり、県内各地の観光名所やおわらの女性の写真のパッケージでお土産品としても喜ばれています。また、テトラパックに入っているため、気軽に楽しめます。そのほか、海洋深層水塩を使った昆布茶も、まろやかな味で好評です。


今が新茶の季節


 そして、何と言っても春は新茶の季節。静岡、京都の宇治など、お茶の名産地から次々と一番茶が入荷してきます。また最近では、鹿児島でも品質の良いお茶が盛んに作られるようになりました。

 一番茶とは、冬にたっぷりと栄養を蓄えたお茶の木から、最初に育つ新芽を摘み取って作ったお茶のこと。そのあと、二番茶、三番茶、四番茶と続きます。

 「摘みたての一番茶がやはり一番おいしいお茶で、旨味、甘味があります」と話す専務。そして、お茶づくりに大事なのは土づくりだとか。

 「土の香りや味が、お茶の葉のなかに入ります。お茶づくりの名人は匂いを嗅いだだけで、どこのお茶かがわかるものなんですよ」

 同社では、産地も厳選して仕入れ、窒素を充填する特殊自動包装機械によって、一年を通して一番茶の風味そのままの商品を提供しています。

 一世紀以上に渡って同社が発展を続けたその秘訣をお伺いすると、
 「お茶の性質上、あまり流行に左右されない、地味な商品だからではないでしょうか」と語る専務。良いお茶を育てる土壌づくりと同じように、一軒一軒、店を回り、永きにわたる信頼関係を大切にしてきた地道な積み重ねがあってこそです。

 お茶をいただくひとときは、相手との間にほっとできる心の余裕をくれるもの。お茶は相手を気遣う、繊細な日本文化の基本でもあります。

 富山の人は、いいお茶を飲んでいると語る専務。健康のために、そして、ゆったりとしたひとときを楽しむために、忙しい毎日のなかでも、お茶で一服する時間を、大切にしていきたいものです。


株式会社中田保商店
富山市室町通り1−4−7
TEL:076-424-3151


●主な歴史
明治35年 中田よねさんが個人創業。
昭和5年 初代中田保さんが代表に。茶専門の小売りと卸売業に。
昭和23年 株式会社中田保商店として法人化。
昭和63年 二代目中田保さんが代表取締役社長に就任。