会報「商工とやま」平成26年12月号

特集 シリーズ/老舗企業に学ぶ16
100年にわたり、お米一筋に歩みつづけた誇り
 田食糧株式会社


  米どころ富山で一世紀以上にわたり米販売業を営み、富山の食と暮らしを支える田食糧株式会社。

 品質を第一に、富山に根ざして発展してきたその歴史について、取締相談役の田耕三さん、代表取締役社長の田千明さん、取締役総務部長の南野正俊さんにお話を伺いました。


大正2年に富山駅前で創業


  田食糧株式会社は、大正2年に、初代店主の田鉄次郎さんが富山駅前でお米や雑穀を販売する田商店を開業したのが始まりです。

 田鉄次郎さんは現在の射水市出身で、実家は農家で地主の家柄でした。同じく射水市の農家で生まれた妻のしげさんとの結婚を機に、富山へ出て田商店を始めたのです。

 その後、鉄次郎さん、しげさん夫妻は7人のお子さんに恵まれます。後に二代目となる田耕三さんは三男で大正14年生まれ。今年89歳で、現在も相談役として元気に活躍されています。


戦中戦後も独立精神で


 田商店は家族で順調に商売を続けていましたが、戦争によってお米が不足すると昭和17年にお米は統制品になってしまいます。耕三さんは次のように振り返ります。

 「当時の食糧管理法によって、富山市内の米屋さんは皆、食糧営団に勤務する職員となって、一括してお米の加工や管理を行うことになりました。精米機を持っているところはまだ少なかった時代ですが、私のところは精米機がありましたから、父の鉄次郎は月給取りは嫌だと言って営団には入らず、ひとり独立して残ったんです。

 戦中戦後は、味噌屋さんの仕事や、飴屋さんの仕事をしていました。味噌には米糀が使われますし、飴もお米のでんぷんで作っていたものでした。そういう仕事をやりながら、戦争時代を過ごしたのです」


特攻機の整備兵として平壌へ


 戦争中に耕三さんは徴兵され、昭和20年には特攻機の整備兵として平壌の飛行場にいました。
 「8月の暑いときでしたが、当時の平壌では生水は赤痢などに罹るため飲めませんでした。しかし、朝から晩まで飛行場にいるため我慢できずに、少し生水を飲んだのです。するとやはり体調を崩し、入院することに。8月12日頃のことでした。入院のため私だけが38度線以南にある水原航空隊へ移ったのです。そこで終戦となったため、抑留等から免れ、幸運にも9月には日本に帰国することができたのです」 

 駅前の店舗兼住宅は富山大空襲で焼けてしまいますが、家族は新湊などに疎開していて無事で、その後、新富町へと移転します。
 戦後は、当時の配給制では七分づきだった黒い米を、白米に精米する「賃精米」を行っていたとか。昭和26年まで配給制がありましたが、その年からようやく民間の登録制に変わり、自店でお米が販売できる時代へ。たばこ屋と同じく、その地域で信頼される事業主が一定の距離を置いて登録を認められました。厳しい時代を家族は必死で生き抜くことができたのです。


富山の復興、新しい時代へ


 現社長の千明さんは耕三さんの長女として昭和28年に誕生しました。

 「昭和30年代の富山駅前の店周辺には、隣に売薬さん、そのほか豆腐屋さんや鉄工所など小さなご商売屋さんが数多く並んでいました。県庁や市役所も近いですし、朝からいろいろな人が行き交っていましたね」

 家族でゆっくり過ごした時間はほとんど記憶にないと語る千明さん。

 「米屋の商売はとても忙しく、休みは元旦だけ。物心ついた頃から364日、精米機が回る音のなかにいました。家族は仕事で忙しいため、私は、ご近所のお子さんがいらっしゃらない家に遊びにいったり、そこでご飯を食べさせてもらったりしたものです」

 そして、戦後はまちの復興とともに人口も増え、お米の販売も右肩上がりの成長時代へ。デパート、スーパー、ホテル、レストラン、餅屋、ます寿司屋、料亭など、数多くの取引先の信頼を得て、家族経営の店舗から、やがて従業員を雇い、事業を大きく拡大していく時代へと移り変わります。


法人化し、北陸最大の販売量へ


  昭和37年に初代の鉄次郎さんが亡くなり、耕三さんが二代目に就任。そして、昭和41年には法人化し、田食糧株式会社を設立しました。

 翌年の昭和42年には上赤江町2丁目に大型精米工場を建設し、日本海精米所として富山県の指定工場となります。耕三さんは大いに手腕を発揮し、田食糧は着実に販売網を確立。お米の販売量で北陸最大の企業へと成長していったのです。

 また、昭和47年には顧客からの要望もあり、子会社の日本海給食株式会社を設立し、企業の食堂や病院の食事の献立づくりから調理までを請け負う事業を開始しました。

 現在は約700名の社員やスタッフが、さまざまな企業の食堂や病院、老人施設などで働き、多くの人々の食と健康を、日夜、支えています。


学校給食の委託炊飯を開始


  炊飯への需要の高まりから、昭和51年には大型炊飯工場を上赤江町に建設し、寿司用などの業務用のご飯の製造販売を始めます。また、学校給食の炊飯事業を請け負うことになり、富山県学校給食委託炊飯施設となりました。

 「従来のパン給食から、ご飯給食が見直されていった時代ですね。給食用の炊飯委託事業は、全国的に見ても早い取り組みでした。富山市では、現在、週3回はご飯給食で、全国的にも米飯率が高い地域となっているんですよ」

 その後も精米工場の能力増強が進められ、昭和57年には食糧管理法のブランチ制度によって、スーパーへの出店が広がり、田食糧でも16箇所に営業所を設置。また、昭和55年には子会社のエムテーランチを設立し、弁当事業に新たに参入しています。


一日75000食の炊飯工場を建設


 順調に業績を伸ばし、昭和62年には新たに本社事務所ビルを上赤江町2丁目に建設。さらに昭和63年には炊飯工場を建設し、一日あたり75000食の生産能力を持つ工場へと一気に増強していきました。現在同工場はHACCP認定の最新設備を備えています。

 「ご飯やお弁当が特に必要な行楽シーズンや年末年始など、デパートやホテル、レストラン、スーパーなど、多くの企業やお店からご注文をいただいています」と話す皆さん。

 さらに、平成7年には、会社創立30周年を迎えるにあたり、本社と精米工場を現在の上赤江町1丁目に新築移転して、新たな時代を迎えています。


こだわりの精米と、きめ細かな対応


 田食糧では、業務用、一般家庭用のさまざまなブランド米に対応する精米工場と、仕出しや弁当製造用のほか、ホテル、レストラン、病院などへ提供するための炊飯工場を備え、多様な需要に対応しています。さらに、食用油や調味料など、厳選した安心できる商品を取り揃え、顧客の過剰在庫や品質管理の負担を軽減する業務用の食料品販売を行っています。

 「田食糧のお米やご飯がおいしい」と、多くの得意先に愛されてきた理由は、お米の品質はもちろん、丁寧な精米へのこだわり、炊飯においても得意先ごとの要望にきめ細かく対応できる対応力にあると言います。

 「精米においては企業秘密の部分がありますが、当社が長年の間に培って来た精米法で、高い品質のお米を、よりおいしいお米へと、丁寧に精米しているんですよ」と話す耕三さんと千明さん。

 「炊飯においても、お寿司の酢めしやカレー、チャーハン、赤飯など、お店やホテル、スーパーさんごとに指定が異なります。例えば酢めしは合わせ酢の味付け、赤飯は色など、実にさまざまで、細かなご要望があるんです。私どもは、それぞれのお店の差別化のお役に立てるよう、大変ではありますが、きめ細かな対応をしています。今後も当社ならではの強みを、ぜひ活かしていきたいですね」と、取締役総務部長の南野正俊さんも強調します。

 必要なときに必要なだけ、さまざまなニーズに柔軟に対応する同社の炊飯部門は、好みが多様化し、変化の大きい時代のなかで、多くの顧客から信頼され愛されています。さらに北陸新幹線開業などによって、今後も需要が高まっていくことでしょう。


お米一筋に一世紀の誇り


 田食糧はお米の精米と販売、炊飯事業で100年にわたり、発展を遂げてきました。
 「戦中戦後の統制の苦しい時代を経ても他業種へと移行せず、お米にこだわり続け、100年続いた企業は、少ないのではないでしょうか。この思い、誇りを今後も大事にしていきたい」と耕三さんと、千明さんはその思いを語ります。

 同社はこれからも、お米の生産者とメーカー、そして消費者を結び、富山に根ざしながら、安心・安全な富山のおいしいお米を食卓へと届けます。

 和食にも洋食にも合うお米を、私たち消費者自身がもっと見直し、日本のお米文化を大切に守っていきたいものです。


田食糧株式会社
富山市上赤江町1?8?13 TEL:076−441−4361
http://www.e-takata.co.jp/

●主な歴史
大正2年  初代田鉄次郎さんが富山駅前で田商店を創業
昭和37年 鉄次郎さんの死去に伴い、田耕三さんが二代目店主に。
昭和41年 田食糧株式会社に法人化
昭和42年 上赤江町に大型精米工場を新設。米穀販売量で北陸最大に。
昭和47年 子会社の日本海給食株式会社を設立
昭和51年 大型炊飯工場を建設
昭和57年 食管法のブランチ制度開始。市内スーパー等16カ所に営業所を設置
昭和63年 炊飯工場を上赤江町に新設。一日最大75000食が生産可能に。
平成7年  会社創立30周年、本社と精米工場を上赤江町1丁目に移転新築
平成17年 代表取締役社長に田千明さんが就任