会報「商工とやま」平成27年1月号

特集U シリーズ/老舗企業に学ぶP
街角の印刷屋さんとして、地域密着のサービスを
 福 村 印 刷


 富山市の中心部で、1世紀にわたって印刷業を営む福村印刷。文化や人の交流を促し、情報発信に欠かせないのが印刷物であり印刷業です。永きにわたり地域に密着したサービスを提供する福村印刷三代目の福村八三郎さんと妻の隆子さん、そして四代目の厚ニさんにお話をうかがいました。

大正ロマンの時代に創業


 福村印刷は、現代表の福村八三郎さんの祖父の福村八十太郎さんが、ちょうど100年前の大正3年に富山市常盤町で創業したのが始まりです。八十太郎さんは若林商店の印刷部に勤めた後に独立開業。近所にはいくつもの印刷所があったと言います。八三郎さんは次のように当時への思いを語ります。
 「大正ロマンの色濃い時代にあって、当時の印刷業は華やかなビジネスであり、祖父は夢多き野心をもって起業したのではないかと想像します。新規事業を起して、『ひと山当てる』という気概があったのかもしれませんし、売薬さんの袋の仕事などにも目をつけていたのではないでしょうか」
 八三郎さんが生まれて程なく八十太郎さんは亡くなったため、祖父の記憶はないそうですが、母の多美子さんから聞いたエピソードがあります。
 「母の話では、お経の本を印刷したり、大手酒造所のビン貼用ラベル、そして、旅芝居のポスターやチラシなどの仕事もしていたようです。祖父は芝居などの興行師を家に泊めてあげたりと、人の世話をするのがとても好きで、清水の次郎長の話に因み、長兵衛さんというあだ名がついたほどでした」


戦争と富山大空襲の苦難を経て


 二代目の三郎さんは、呉羽の生まれで、八十太郎さんの娘の多美子さんと結婚し、婿養子に。農家からハイカラな印刷業に身を置くことになります。
 しかし、昭和12年9月に身重の多美子さんを残して応召となり、満州や支那を転戦。その年の12月に長男の八三郎さんが誕生します。
 「父は戦地にいたので、母が祖父の名前の『八』と父の『三』をとって、八三郎と名付けてくれました。戦地で病んで、昭和16年頃に除隊して帰ってきたのですが、私が子どもの頃に戦争体験について聞いても、父は決して話すことはありませんでした。相当悲惨な体験だったのだと思いますね」
 三郎さんの軍隊手帳が仏壇から最近見つかり、その手帳には陸軍で辿った軌跡が実に細かく記されていました。
 「父は本当に几帳面で真面目な人でした」と八三郎さんは振り返ります。
 昭和17年頃からは軍事用に印刷機器や活字など金属の設備はすべて供出させられ、仕事ができなくなったため、三郎さんは日曹製鋼(現大平洋製鋼)に、多美子さんは五番町にあった越浜印刷に勤めに出ました。
 そして、富山大空襲で全てを失い、三郎さんの生家に家族全員が疎開します。しかし、大所帯で気兼ねしながらの生活だったため、早々に現在の梅沢町の焼け跡に土地を買い、バラックを建てて移り住みました。子どもたちを食べさせるため、三郎さんの勤務先の下新町の空き地を借りて畑を作ったり、荷車に子どもたちを乗せて畑に行った帰りには、牛島の運河沿いの製材所で木材の切り屑をもらって薪に利用するなど、耐乏生活を送りました。
 「しかし、祖母のサトはとても料理上手で、生活力も旺盛でした。得意先だった近くの種屋さんからトウモロコシを袋ごと仕入れ、それを天ぷらにして駅前のヤミ市で売ったところ、飛ぶように売れたそうです。私たちは5人兄弟ですが、食べ物の無い時代に育ったにも関わらず、兄弟が皆、いまもこうして元気なのは、祖母がいろいろと工夫して食べさせてくれたお陰。偉い人だったと思いますね」


再び印刷をスタート


 終戦前後、一時休止していた印刷業ですが、従来客からの注文があり、近くの印刷所と協力して仕事は細々と続けていました。程なく八尾の同業者からB4判程の手動の手フート印刷機を譲り受けることに。三郎さんとサトさんが2人で、荷車を引いて取りにいったのですが、帰りに広貫堂近くまできたときに気が緩み、倒れ込んでしまうほど大変な道のりでした。
 この印刷機によって、三郎さんも会社勤めを辞めて印刷業を本格再開。三郎さんは元の勤務先からも仕事を受注するようになり、商売は順調に軌道に乗っていきました。
 当時の機械は断裁機も人力手動。木版でタオルに店名を入れるような仕事は、大人も子どもも家族総動員で行いました。小学生の八三郎さんも、アルバイト料を励みにしながら、配達から請求書配り、集金などによく出かけたものでした。
 やがて、三郎さんの生真面目な仕事振りと、多美子さんの明るく積極的な商売思考で、固定客にも恵まれ商売は安定。家族総出で昼夜を問わず懸命に働きました。
 「母は明るく前向きで、いつも笑顔を絶やさず、お客さんも自然に笑顔になるような人。そして、父は怒ったことがない、常に静かで穏やかな優しい人でしたね」


大手銀行から家業へ


 長男の八三郎さんは、富山高校を卒業後、大阪の三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)に就職。青春時代を大阪で過ごしました。しかし、27歳のとき、富山で家業を継ぐ決意をします。
 「当時、父母は現役で弟妹はまだ就学中の頃。将来を考えると、自営業ならば自分で働いた分はストレートに収入になり、休みも取りやすいのでは、という思いがありました。周囲の反対のなか、銀行を辞めてUターンしたのです。でも、予想に反して、以来、今日まで猛烈に働き続けることになりましたね(笑)。その頃、無理をして記念に買ったドイツ製の印刷機、ハイデルのプラテン機は、50年余、部品ひとつ交換することなく、いまも現役です」
 また、当時、北陸銀行の担当者から紹介された会社が急成長したことで、業績も大きく拡大。経営にもゆとりがでてきました。しかし、母の多美子さんは口癖のように、「良い事はそう続かない。身の丈に合った生き方をすべき」と、石橋を叩いて渡る慎重な経営をいつも諭していたそうです。
 昭和39年に八三郎さんと隆子さんは結婚し、3人のお子さんに恵まれました。結婚後も、早朝からときには深夜まで、忙しい毎日が続きましたが、その分、成果が上がり、仕事のやりがいも大きい日々を過ごしました。
 活版印刷の時代には、隆子さんは活字を一文字一文字拾い、文字の空き具合を微調整するなど、とても時間と手間がかかる細かな仕事を担当していました。いまも活字の一部と名刺の版の一部は事務所内に残されていて、隆子さんの仕事の緻密さと、ご苦労を伺い知ることができます。


四代目の厚二さんが次の時代へ


 100年続いてきた福村印刷の強み、独自性とは何でしょうか。
 「当社の独自性は地域密着型であることで、それは企業としてというよりも、生き方なのかもしれないですね」と話すのは四代目の厚二さんです。関西の大学を卒業し、現地の企業で働いた後、家業を継ぐために富山にUターン。父の八三郎さんもそうだったように、厚二さんも地域の行事に積極的に参加し、消防団や体育協会の世話をするなど、地域に貢献しながら人脈を広げています。最近では富山県印刷工業組合の青年印刷人協議会の一員として若手経営者との交流を深め、印刷業の最新の情報に触れたり、これからの印刷業のあり方について勉強中です。
 現在は、厚二さんの妻の加奈子さんも含めて家族で、福村印刷を営んでいます。住居と仕事場が同じ家内工業として、仕事の内容は全員で共有。近隣に多くある寺院の仕事や、大手ではできない細かな仕事なども、積極的に受注しているそうです。


喜寿、金婚式、100周年


 八三郎さんは今年喜寿の77歳で、金婚式を迎えました。そして、福村印刷は100周年というめでたい事が重なります。隆子さんは、何より健康第一を大切にしてきたと語ります。
 「家内労働ですから、一人欠けると大変なことになります。これまで家族が病気をせず、続けてこられたのは本当に恵まれていたと思いますね」
 八三郎さんも、「よく働くことが健康につながると思います。やはり楽天的で、いつも明るくお客さまに接していることでしょうね。それは母の多美子の影響もあるのかもしれません」。
 印刷の仕事は、時代は変わっても、プロならではの仕事が求められていることに変わりはありません。三代にわたり支えてもらった方々への感謝を忘れず、福村印刷は「街角の印刷屋」さんとして、これからも地域密着型で、細かなところまで行き届いたサービスを提供して、情報文化の一翼を担っていきます。


福村印刷
富山市梅沢町2町目7-8
TEL:076・421・6489

●主な歴史
大正3年  初代 福村八十太郎さんが創業。
昭和12年 富山市殿町(現白銀町)に移転。二代目 三郎さんが継承。
昭和20年 富山空襲後、梅沢町に移転。
昭和60年 オフセット部門工場竣工。
平成8年  三代目 八三郎さんが継承。



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