会報「商工とやま」平成27年5月号

シリーズ/おじゃましま〜す
 当所企画総務委員会委員長 小林 紀男 氏 
(当所常議員・大成産業株式会社代表取締役社長、富山日野自動車株式会社代表取締役会長)


 富山商工会議所の活動を支えていただいている委員長の皆さんを訪ね、時には仕事を離れて、ご自身のこれまでの歩みや明日への期待などについてお話を伺いました。


生まれは富山市荒町1丁目1番地


 生まれた当時の自宅は、富山市荒町1丁目1番地。市電通りに面した、まちのど真ん中です。父は昭和8年から自動車部品を扱う「小林自動車商会(現在の大成産業)」を経営しながら、外車クライスラーの代理店でもありました。現在、富山市内にある自動車に関係する会社が少しずつ立ち上がってきた頃で、当時、県内の普通自動車も保有台数は、せいぜい900台弱です。
 遊ぶおもちゃは自動車部品で、店の棚に陳列してある部品をまき散らかして、こっぴどく怒られたことを覚えています。


忘れられない富山大空襲の惨劇


 小学1年になる前の富山大空襲の光景を今でも鮮明に覚えています。
 昭和19年に父が兵役に出ることになって、商売もできず、中心部は危ないというので、磯部町に引っ越しました。富山大空襲の時は、防空壕に家族で避難してましたが、爆撃が激しくなると防空壕の中も熱さで居られなくなり、たまらず外へ出たところで眼前に飛び込んできたのが、自宅の向かいの家が焼け崩れる光景でした。  母に手を引かれて神通川へ逃げようとするけど、火災の熱風と南からの強風で土手を越えることができず、手前のどぶ川に身をひそめて一夜を明かしました。
 市内が焼け尽くされた中にあって、自宅は奇跡的に焼失を免れました。まだ、田んぼが広がり住宅が密集していなかったのと、風向きが幸いしたようです。爆撃を受けなかった訳ではなく、焼夷弾の不発弾が自宅に突き刺さっていたのをはっきりと覚えています。
 幸い家族は全員無事でしたが、神通川の河原は死体で埋め尽くされ、地獄のような惨状を目の当たりにしました。こんな悲惨な空襲をまち中で経験した者は、私のまわりにもいませんよ。


スポーツ少年への成長


 幼い頃に2度の大病を患ったこともあって、両親から「運動して強い体をつくれ」と言われてました。小学生頃からは体も大きくなり、ガキ大将に成長。野球にのめり込み、少年野球の富山市大会ではピッチャーで優勝したこともあります。
 中学からはバスケットボールに転向。これが高校、大学まで続けることに。良き仲間と出会い、いろいろな考え方や見方があることを知ったのもこの時期でした。


財務諸表が読める経営者に


 小さい頃から自動車屋を営む父の背中を見て育ち、そして自動車部品をおもちゃにしてきたので、将来は当然父の跡を継ぐものだと思ってました。父に相談したところ、意外に自動車業界ではなく、他の業界を薦めてくれたのですが、結局、日野自動車工業に入社しました。
 配属先は経営管理部で、全国のディーラーの経営状況の把握と経営指導を担当しました。車の販売ではなく、財務諸表の見方から経営分析に至るまで一所懸命に勉強したことが、富山に帰ってからとても役立ったのです。
 新入社員を経営管理部に配属したことは、日野自動車内でも特別な扱いだったと思いますよ。もしかしたら「財務諸表も分からない者が会社を経営できない」という父の意向を汲んでもらえたのかもしれません。


人と人とのつながりを大切に


 日野自動車工業に2年間お世話になった後、昭和39年に父が経営する「北陸日野自動車」に入社しました。この後、入会した青年会議所(JC)の活動では、忘れられない思い出がたくさんあります。
 富山JC副理事長を経て日本JCへ出向した時の麻生太郎氏(第2次安倍内閣で副総理兼財務大臣兼金融担当大臣)との出会い、そして富山JC理事長として京都会議での代表演説などで、自身を大きく成長させてくれた時期であり、地元をはじめ国内に幅広い人脈を作ることができたことが大きな財産となっています。
 私の信条は「誠・和・魂」です。「誠をもって人に接し、和をもって事をはかり、魂をもって志を貫く」という意味で、これまでの人とのつながりを大切に思い、これからも人とのつながりを大切にしていきたいと思ってます。(談)


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