会報「商工とやま」平成27年5月号

シリーズ/おじゃましま〜す
 当所中心市街地活性化委員会委員長 若 林 啓 介 氏 
(当所常議員・株式会社若林商店代表取締役社長)


 富山商工会議所の活動を支えていただいている委員長の皆さんを訪ね、時には仕事を離れて、ご自身のこれまでの歩みや明日への期待などについてお話を伺いました。


明治6年創業。業歴142年の老舗問屋


 薬を包装する和紙を売薬さんのために八尾から調達していたのが、紙卸のはじまり。初代は、自らも長門(現在の山口県)に懸場帳を持っていましたが、自らは、売薬業には従事していなかったようです。
 明治に入って廣貫堂が設立された頃から、徐々に薬の製造と販売が分離され、紙資材の卸先は印刷紙器会社へと移っていきました。包装形態の変化や発達に伴い、取扱う紙の種類や量も順調に伸びていきました。以来、私が7代目の社長になります。
 生まれは、富山市中町(現在の中央通りの1丁目)。小学3年生の時に現在の会社のある場所に転居するまではそこで育ちました。この時の遊び仲間の何人かとは、今でもお付き合いがあります。


世界への思いが強まり商社マンに


 私は3人兄弟の長男で、父は私を跡継ぎにしたいとは思っていたようですが、息子3人に対しては割と平等な姿勢でした。自分も跡を継ぐ気持ちは余りなくて、小学生の時から英会話の勉強をしていたこともあって、将来は国際的な仕事がしたいとの思いが次第に強くなっていきました。
 中学生の時にはアマチュア無線に夢中になり、学校の授業では数学と理科が好きでしたね。大学では自動車部に入ってメカニックを務め、家業とは全く違う分野への興味が旺盛でした。今でも、電子工作が趣味の一つなんですよ。
 しかし、高校3年生の時にアメリカに1年間留学したこともあり、「国際的な仕事をしたい」との思いがさらに強まって、大学卒業後は大手商社に入社したのです。


西ドイツの豊かな生活を富山でも


 入社5年後には念願の海外勤務となり、当時の西ドイツに赴任しました。西ドイツの生活では、個人の時間を大切にする生活の豊かさや、一極集中を嫌う地域性の高さを感じてました。親からの熱心な誘いと、いずれ帰国した時の東京での息の詰まるような生活を思えば、富山に帰った方が豊かな生活ができるかもしれないとの思いもあり、12年間勤めた商社を辞めて、若林商店に入社したのが35歳の時です。
 若林商店では、得意先へのトラック配送など現場の仕事からはじめ、営業を経験した後、平成13年に社長に就任しました。その間、社員一人あたりの紙の取扱い量が少なく、収益性の低いことが一番の課題でした。


「多品種」「小ロット」「短納期」を武器に


 機能を通じての存在意義・価値がなければ、卸は必要とされません。
 当社の生き残り策を考えた時に、紙は単価が安く、少量ずつの輸送ではコストが嵩みます。一方、お客様からは多品種を少量ずつ、早くというニーズが根強いので、卸売業が大量に仕入れて、小分けや加工をして配送すれば強みにできると考え、「多品種」「小ロット」「短納期」を武器に顧客を開拓してきました。
 社員たちには、機械化・電子化・仕事の集約化を図り生産性を上げることをテーマに、「社員一人あたりの売上を増大させよう」と言い続けています。


やる気のある人が挑戦できる中心商店街に


 中心市街地活性化委員会の委員長を務めているのですが、富山市が進めるコンパクトシティ構想を核とする街づくりの方向性は間違っていないと思います。中心商店街地区では、総曲輪通り西地区や富山西武跡、中央通りD北街区などの再開発事業が進行しており、中心市街地は変化しつつありますね。
 中心部が活気を失った原因を今一度整理した上で、若い世代で、やる気のある人たちが挑戦できる環境整備や若い人のエネルギーを育てていける方策などを委員会のテーマにしてみたいと思っているのです。(談)



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