会報「商工とやま」平成27年7月号

シリーズ 老舗企業に学ぶ19
ものづくりへの信念を受け継いで118年 野口石材店


 富山市岩瀬で石材業を営む野口石材店。一世紀以上にわたって石材業を営んできたご家族の歴史について、野口幸子さんと、四代目の匠作さんにお話を伺いました。


明治30年に岩瀬で創業


 野口石材店は、明治30年に初代の野口作次郎さんが岩瀬で創業したのが始まりです。
 作次郎さんの実家では常願寺川の土手や砂防などの工事を手がけており、作次郎さんも家業を手伝っていました。そして岩瀬の五大家の一つ、宮城彦次郎家の石を直す仕事をきっかけに、作次郎さんは岩瀬に移り住み、明治30年に野口石材店を開業。岩瀬に住む黒田きくさんと結婚し、分家として岩瀬で所帯を持ちました。
 明治31年には、後に二代目となる作造さんが誕生。また、作造さんの上には姉がいて、その方が幸子さんの母方の祖母にあたるそうです。



神社の鳥居を手がけて成功


 作次郎さん一家は間もなく、富山市の七軒町に移り住み、市内の神社の鳥居などを数多く手がけるようになりました。
 「17本の鳥居を建てたと聞いていますが、とにかく忙しかったそうです。当時は、かなり商売がうまくいっていたようですね」と、幸子さん。当時の話は、姑のキヨさんからよく聞かされていたそうです。岩瀬の諏訪神社にある鳥居も明治39年に作次郎さんが手がけたもの。
 「初代は字を彫るのが上手な人で、諏訪神社には、そのほかにも人の足が入るほどの大きな文字が刻まれている記念碑もあります。別のお寺には、細かな文字を彫ったものも残っているんですよ」
 明治45年に撮影された、作次郎さんが職人さんや家族とともに写っている写真が残されていて、作次郎さんは堂々とした白い法被姿、まさに親方の風格と威厳を感じさせる貴重な1枚となっています。


台湾でも一時期仕事を


 また、年号ははっきりしませんが、富山で石に文字を彫るのが一番うまい職人ということで、作次郎さんと作造さんは一時期台湾に渡って仕事をしていたとか。作造さんは石の仕事がなくなると、台湾で反物屋の仕事もしたそうです。そのとき使っていたそろばんが野口家に残され、幸子さんがいまも大切に使っています。
 「5つ玉のそろばんですが、まだなんともないので、大事なものだと思って、毎日使っているんですよ」
 その後、富山に戻り、作造さんは大正15年に、大山の大きな農家の娘だったキヨさんと結婚。作造さんのものと見られる写真には、とてもおしゃれな青年の姿が写っています。
 作造さんは岩瀬で毎年5月17日に行われる曳山祭りが大好きで、毎年朝方まで、けんか山を見に行っていました。そして、亡くなった日も昭和46年の5月17日、まさにお祭りの当日だったそうです。


一家は希望を胸に能登へ


 七軒町での石屋の商売が大成功したことから、作次郎さんはひと山当てようと、昭和初期には能登の山を購入。金・銀・銅などの鉱山の採掘を目指して借金をし、職人も使い、山の仕事を始めます。しかし、残念ながら、その山からは何も出ず、大きな借金を背負ってしまい、一家の生活は一変します。
 昭和6年3月に作次郎さんが能登で亡くなりますが、同じ年の7月に、後の三代目の嘉一さんが、作造さんの長男として誕生しています。


ふたたび岩瀬へ


 作造さん一家は、その後、戦況が悪化するなかで昭和18年に岩瀬の赤田町に移り住み、嘉一さんは小学校6年生から岩瀬小学校に通いました。嘉一さんは勉強がよくでき、卒業生の代表も務めたそうです。また、文学青年で、中原中也が好きだったとか。しかし、石材店を継ぐにあたり、機械について学ぶため、富山工業高校の前身、富山工業学校に進学しました。


幸子さんの戦争の記憶


 昭和20年8月の富山大空襲のとき、幸子さんは10歳で小学5年生、佐伯家の4人姉妹の長女として、西田地方(現花園町)で暮らしていました。
 「父は富山郵便局の本局に勤めていて、8月1日に『今晩空襲だぞ、逃げる準備をしておけ』と言っていました。夜中に電気が消えたと思ったら、バババーという爆弾の音でB29の空襲が始まり、空が真っ赤になりました。祖母や妹と逃げた土手から家が見えて、父がなんとか火を消そうとしていましたが、家は焼けてしまいました。でも家族はそれぞれに、なんとか逃げて全員無事でした」


右肩上がりの時代へ


 幸子さんは高校を卒業後、不二越に勤め、昭和35年に嘉一さんと結婚。野口家での新たな暮らしが始まりました。幸子さんは女の子を2人、そして昭和45年には長男の匠作さんを出産しました。人々の暮らしが豊かになり、どの家庭も立派な墓石を建てるようになり、仕事はとにかく忙しい毎日でした。まさに右肩上がりの時代で、嘉一さんも新しい機械を次々と購入し、昭和48年には、神社のまわりの玉垣を作るために大型の切削機を導入したそうです。


モダンなデザイン、文字にこだわる


 嘉一さんは文学青年の芸術家肌で、読書家。また、ちょっと変わったモダンなデザインの灯籠などを作るのが得意で、店頭に並べておくと、すべて売れたそうです。その灯籠はいまも岩瀬の街なかで見ることができます。また、オリジナル彫刻をつくっては、モダンアート展にも毎年、出品していました。
 そして、初代に負けられないと、嘉一さんは得意とする文字を刻む仕事を県内外から数多く受注。職人さんもいましたが、子供たちも含め、家族総出で字を彫る仕事を手伝ったり、石を磨いたものでした。
 「寒いときは家のなかでも字を切る仕事をやったため、掛布団にもサンドブラストの砂がかかったりして、洗濯機もすぐに壊れてしまうほどでした」と、幸子さん。
 さまざまなビルの銘盤や県内外の建築関係、温泉施設の仕事などを多数手がけたそうで、加賀屋さんの柱の下の礎盤を800個ほど、つくったこともありました。


あらたな時代へ


 平成14年に嘉一さんは亡くなり、幸子さんは「嘉一さんは本当によく頑張った人」と振り返ります。
 そして、現在は息子の匠作さんが四代目に。近年は墓石の仕事に絞って、新規のお墓の建立や古いお墓の修理、改修、洗浄などを行っています。いいものを良心的な価格で提供するのが野口石材店のモットーです。


肌理が細かいほどいい墓石


 墓石といっても、色も種類も実にさまざまで、高級品のポルトガル産の石やインド産、中国産、そして日本の茨城産などもあります。
 「ポルトガルの御影石などは、磨いても肌理が細かく、とても気持ちがいいものです」と話す幸子さん。そのほかにも日本の高級品、茨城の石は、小目、中目、糠目など数種類あり、糠目は一番肌理の細かな石。これでなければと、こだわりをもつお客さんもいらっしゃるそうです。
 また、最近では県外に住む方が実家の古いお墓の整理をされるケースもあるとか。野口さんに問い合わせれば、お墓のさまざまな相談に乗ってくださいます。


ものづくりへの信念をつなぐ


 少年時代から体を動かすのが大好きだったという匠作さん。幼い頃から墓石店を継ぐように言われ、好きだった道をあきらめ、17歳頃から、この道一筋に歩んできました。
 「何があっても耐えて、とにかくこの家業を続けていくこと。それしかないですね」と匠作さんが語ると、隣りで幸子さんが付け加えます。「先祖からの信念が、ここまで続いてきた理由ですね。首に縄をつけてでも、石屋をさせると言われてきましたから」。
 匠作の作は、作次郎さん、作造さんからもらったもので、匠という文字と合わせ、まさにものづくりにかける家族の思いの証です。一世紀を超えて、いいものをつくりたいという信念が、いまも脈々と野口石材店には受け継がれています。



野口石材店
富山市西宮101-4
電話  076−437−7946

●主な歴史
明治30年に野口作次郎さんが野口石材店を岩瀬で創業
昭和6年にニ代目作造さんが継承
昭和46年に三代目嘉一さんが継承
平成14年に四代目匠作さんが継承