会報「商工とやま」平成27年10月号

シリーズ/おじゃましま〜す
 当所環境・文化委員会委員長 桝田 敬次郎 氏 
(当所常議員・株式会社桝田酒造店 代表取締役会長)


 富山商工会議所の活動を支えていただいている委員長の皆さんを訪ね、時には仕事を離れて、ご自身のこれまでの歩みや明日への期待などについてお話を伺った。


創業は北海道・旭川で


 明治26年、初代兵三郎が北前船で旭川に渡り、酒蔵を始めた。その後、明治38年に長男・亀次郎が現在地に戻り、昭和5年頃から「満寿泉」を主力ブランドとして大きく成長することができました。
 私は、昭和10年に岩瀬に生まれ、大学に在学中は大阪で過ごしたほかは、ずっと岩瀬で育ち、暮らしてきたのです。
 小さい頃の岩瀬の様子は、小学生くらいからの記憶しかありませんが、戦災にあっていないこともあり、大まかには今の風情とあまり変わらないように思います。
 ただ、同級生をはじめ、多くの子供で活気があり、学年の隔てなく遊びまわっていたのが常でした。1つの学年には200人くらいが小学校に通っていたものです。


父の急逝で急きょ酒蔵を継ぐ


 自分は四代目になりますが、小さい頃から将来は酒蔵を継ぐのだと思っていました。当時、多くの場合、長男が家業を継ぐのが当たり前でしたから。
 大学へ進学するとき、父から吟醸酒の研究を勧められ、醗酵工学を専攻しました。4年の課程を終えて、大学院でさらに研究を深めようとした矢先、父が急逝し、急きょ岩瀬に戻り22歳で酒蔵を継ぐことになったのです。
 酒蔵で、実際に酒を造るのは杜氏です。大学で醗酵工学を専攻したからといって、酒を仕込める訳ではありません。岩瀬に戻ってしばらくは、蔵元として酒蔵を続けることに一所懸命で、吟醸酒を手掛けられたのは昭和40年代からでした。


金賞の連続受賞で吟醸酒も軌道に


 その頃は、まだ吟醸酒は一般的でなく、いわゆる日本酒の鑑評会に出品してその出来栄えを競っていた時代です。まだ若手だったけれども腕のいい杜氏にも恵まれ、ようやく鑑評会でも連続して金賞を受賞できるまでになりました。
 連続して評価を受けられるようになると、昭和50年代には全国の酒蔵をリードするグループとのネットワークが広がりましたし、市場においても徐々に吟醸酒が受け入れられるなど、時代の流れに乗って吟醸酒の生産を軌道に乗せることができたのです。


当所青年部と青年会議所に同時入会


 昭和50年2月に青年会議所と新設の商工会議所青年部に同時に入会しました。青年部は最初から卒業まで役付きで、昭和57年には第7代会長も務め、大変だったけれども、今ではよき思い出になってます。いろいろな行事に携わり、また、深夜まで大いに飲み、歌いましたが、そのため青年会議所は飲み会と麻雀以外は殆どお役に立てませんでしたね。


醗酵工学専攻の思わぬ副産物


 大学で醗酵工学を専攻したことが、思わぬ活躍の場を与えてもくれました。例えば、日本酒をまだ、1級酒、2級酒などと区分していた時代に、1級、2級を決める審査員をやらせてもらいました。多くの審査員は、長年の経験で研ぎ澄まされた感覚で審査にあたるのでしょうけど、業界の方々が、私が専攻した分野を知っていて、まだ若かった私を抜擢してくれたのです。
 また、より審査基準の厳しい新酒鑑評会の審査員もやってきましたが、やはり周りの方々に抜擢していただいたおかげです。若いうちからこうした経験をすることができ、本当にありがたいことです。


伝統とは革新の連続物


 明治26年に創業してから120年以上の伝統が受け継がれてきましたが、その中身は時代の流れを考え合わせながら、常に新しいことへの挑戦の連続であったと思います。そのことを「伝統とは正に革新の連続である」と言い聞かせています。そうでなければ、進歩はないし、次の世代に伝統を繋ぐことはできません。


創業者としての矜持を持って


 これから事業を始めようとする若い世代の方には、伝統は無いけれども、創業者としての矜持をしっかり持って欲しいと思います。
 成功した創業者の体験談を聞いたり、伝記を読んだりすると、例外なしに真面目に、そして一所懸命に取り組んでいます。新しく事業を始めることは、革新を起こすことです。
 そのことに真面目に向き合うことによって、次の世代に引き継ぐ伝統が生まれると思うのです。(談)


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