会報「商工とやま」平成27年11月号

シリーズ 老舗企業に学ぶ20
北陸で唯一のバイク、自転車の部品を扱う総合卸商社 有限会社富山商会


 富山市今泉でバイクや自転車の部品を取り扱う総合卸商社を営む有限会社富山商会。一世紀を超えて地域の多くの販売店に頼りにされ、愛されてきたお店です。四代目で、同社代表取締役の武部喜一さんにお話を伺いました。


明治33年に創業


 富山商会は明治33年、いまから115年前に、初代の武部喜兵衛さんが創業したのが始まりです。富山大空襲で住居も家財道具もすべて焼けたこともあり、詳しい資料は残っていないということですが、武部家の当主は代々喜兵衛の名を継いできました。現在の代表取締役で四代目の武部喜一さんは昭和27年に誕生し、富山市一番町で育ちました。
 喜一さんの祖父で二代目の武部喜兵衛さんは、喜一さんが3歳の頃に亡くなっているため、記憶はほとんどないとのことですが、「唯一覚えているのが、近くの大和の食堂に連れて行ってもらい、旗の立ったお子様ランチを食べたことですね」と懐かしくも楽しい、思い出の一場面を振り返ります。


混乱と苦労の時代を経て


 喜一さんの父で三代目の喜兵衛さんは富山市で生まれ、後に武部家の養子となりました。富山大学経済学部の前身の高岡高等商業学校を卒業。戦中は招集され、将校として満州で終戦を迎えます。終戦から1年以上経ってから帰還したそうです。
 「父の記録を調べようとしたところ、県庁に軍隊時代の記録が残っているということで、資料を見せてもらったことがあります。そこには、内地にいたときからの記録がすべて残っていましたね」
 その後、喜兵衛さんは家業を受け継ぎ、昭和30年から40年代には、ホンダ「スーパーカブ」や、マフラーなどの各種部品も扱っていました。高度経済成長期でバイクは飛ぶように売れる時代。しかし、一方で、経営が不安定な店が多く、取り引き先の倒産や手形の不渡りなどで、大変苦労された時期でもあったそうです。
 昭和39年に法人化し、やがて、喜一さんが中学生になる頃には、商売は順調となっていきました。


サイクリング協会の理事長として


 三代目喜兵衛さんはスポーツタイプの自転車に早くから注目し、長きにわたり、富山県サイクリング協会の理事長などを務め、サイクリングの普及に尽力していました。一般の多くの方が参加し、楽しめるサイクリング大会の開催もその一つです。
 県サイクリング協会で行われている、秋の「ネオセンチュリーラン」は、太閤山ランドを起点に、庄川水記念公園などをまわり、約100キロのコースを走るイベントです。また、「おにぎりサイクリング」では、初心者も楽しむことができる短めのコースも用意されています。
 さらに喜兵衛さんは、昭和56年には、全日本サイクリングラリーを県内に初めて誘致しました。
 「大会の翌日には立山の有料道路を、早朝ではなく日中、自転車で走る計画になっていました。これは画期的なことで、父は何度も県に頼みに行ってようやく実現にこぎ着け、医師や看護師も連れていく予定にしていたのです。ところが、前日になって台風が来るということで中止に。でも実際、当日は晴れとなり、本当に残念でしたね」
 後に、喜兵衛さんはサイクリング普及の功績が認められ、県と文部省から表彰を受けられたそうです。
 最近ではグランフォンド富山や富山湾岸サイクリングなど、多くのサイクリングイベントが県内で開催されるようになりました。喜一さんも父に替わり協会の仕事を受け継ぐことになり、現在は県サイクリング協会の常任理事として、さまざまな形で県内のサイクリングイベントの開催や運営に尽力しています。


大阪で最先端の知識を身につける


 現社長の武部喜一さんは一番町で育ち、富山中部高校から金沢大学工学部に進学。しかし、大学を中退し、一時、金沢のロックハウスで働いていたことがあり、最初は家業を継ぐつもりはまったくなかったそうです。
 「ロックハウスでマネージャーをしていたのですが、しばらくして、これは男のやる仕事ではないと。父に、人生をやり直したいから一番厳しい会社はないかと聞いたんです」
 そのときに大阪の城東輪業社という、スポーツ自転車部品の卸しでは、当時全国トップだった会社を勧められて入社します。喜一さんはやがて店長となり、仕入れや販売などすべてを任され、非常に忙しい毎日を送っていました。残業は絶対ダメという社長の方針で、書類の整理などは自宅に持って帰ってすることが多かったとか。とても厳しい社長だったそうですが、全国の有力な販売店に直接売り込むなど、時代を先取りした経営方針で、業界でも有名な人物でした。
 喜一さんはここで、商売のノウハウを徹底的に学び、業界の最先端の知識を身につけることができました。その後、社長から独立を勧められるまでに力をつけていったそうです。


富山へ戻り、家業を受け継ぐ


 喜一さんは23歳で、金沢で知り合った典子さんと結婚し、25歳のときには長女が誕生しました。
 「孫の顔を見に来た母から、どうしても富山に帰ってきてほしいと言われ、大阪の店を辞めて富山に戻り、千石町で営んでいた家業を継ぐことになったんです」
 喜一さん、典子さん夫妻には3人のお子さんが誕生しました。


フル装備のバイクが大人気に


 喜一さんが富山に戻ってからは、バイクの部品の取り扱いが大幅に増え、二輪用品とタイヤ専門店の「Bike Gear's アビーロード」を富山市二口にオープンしました。若者はみんなバイクに憧れた時代。フル装備のバイクが大人気となり、ヘルメットは300〜400個、革のつなぎなどを100着も置いていたほどでした。県内のオフロードバイクの大会の世話をしていたこともあったそうです。
 その後、アビーロードを閉店し、介護福祉用品の専門ショップ「ハートマントヤマ」の運営を経て、現在は、富山商会の経営一本に集約。平成3年には喜一さんが代表取締役に就任しました。
 また、喜一さんは富山商工会議所青年部でも活躍。平成4年にはおらっちゃ祭り実行委員会の運営局長として祭りを成功に導きました。
 父の喜兵衛さんは平成23年に亡くなり、現在は富山市今泉で、喜一さん、経理担当の妻の典子さんのほか、3人の従業員で富山商会を営んでいます。典子さんは日本画家でもあり、県展大賞を受賞するほどの実力の持ち主でもあります。

インターネットの時代での模索


 ヤマハ、ホンダ、スズキなど大手メーカーの方針転換もあり、現在では富山商会は北陸では唯一のバイク、自転車部品の指定卸商社となり、富山、石川と両県にまたがる商圏で、とても忙しい毎日を送っています。取材中も次々と電話がかかり、来客が絶えることがありません。
 「大手メーカーがインターネット注文に切り替えているなかで、当社ではいまも、FAXやカタログでの注文と個別配達に対応しています。
 細かな注文ばかりですから、とても手間がかかりますが、当社のようなところがなくなると困るとよく言われているんです。でも、在庫も多く、お客さまには、もっと、まとまったご注文をいただけると、本当にうれしいんですけどね(笑)」
 平成以降は、バイクに乗る人が減り、自転車も、最近は壊れても修理せずに使い捨てるような、安価で品質の悪いものが少なくありません。街なかのお店で買う人が減ると、自ずと販売店への販売も減少していきます。また、サイクリングブームではありますが、ロードバイクなどは海外のメーカーのものが多く、同社では取り扱わないため、商売は難しくなっているとのことです。


富山独自の自転車文化を


 ヨーロッパ各国では、環境や古い街並みなどの景観を守り、移動に便利で、健康づくりにも役立つ自転車文化が根付いています。道路も自転車専用に整備されていたり、人々の意識もとても高いものがあります。
 「そういった意味では、日本はまだまだ文化的に遅れていますね」と喜一さん。富山でも地場の企業と自治体とがもっと連携して、独自の自転車文化をつくっていけば、まだまだ新しい可能性が広がっていくのかもしれません。


有限会社富山商会(輪界部品総合卸商社)
富山市今泉257−1 TEL:076−425−4224

●主な歴史
明治33年に初代、武部喜兵衛さんが富山市で創業 
(時期不明)二代目喜兵衛さんが継承
昭和30年に三代目喜兵衛さんが継承
平成3年に喜一さんが継承