会報「商工とやま」平成27年8・9月号

シリーズ/おじゃましま〜す
 当所創業・経営革新支援委員会委員長 須垣 純夫 氏 
(当所常議員・富山スガキ株式会社代表取締役会長)


 富山商工会議所の活動を支えていただいている委員長の皆さんを訪ね、時には仕事を離れて、ご自身のこれまでの歩みや明日への期待などについてお話を伺った。


創業は売薬向けの紙屋から


 当社は明治10年に売薬向けに八尾の和紙などを扱う紙屋として創業し、私が4代目です。今の印刷業は先代の久作が大正15年に始めたもので、薬袋などやはり売薬関連の仕事が多かったようです。
 私は生まれが新湊で、大学卒業後、東京で就職しました。その内4年間は経理の業務を教えてもらい、これが私にとって大変勉強になりました。


入社3年目で無任所常務に


 昭和48年に縁があり、須垣家へ養子として入りましたが、入社した頃の会社はいろいろな問題を抱えておりました。
 入社して3年目にいきなり「無任所常務になれ。経営は総てお前に任せる」と社長から言われましたが、このことがのんびり屋の私を変えてくれる転機になったと思います。特に労働組合との交渉は厳しく、毎回、胃の痛む思いをしました。


県外の市場開拓を決断


 当時当社の市場は県内のみで、商業印刷が7割以上でしたが、将来を慮り、昭和52年に東京へ進出し、医薬品パッケージのみ市場開拓を進めることにしたのです。
 なぜ、医薬品パッケージに絞り込んだかといえば、紙屋として出発した時も、印刷を始めた時も、県内のほとんどの医薬品メーカーと取引があり、その分野の特殊なノウハウや技術の蓄積ができていたからです。
 その後、昭和58年に1000坪の医薬品パッケージ専門工場を建設し、以後2回、増改築を重ねてきました。
 昭和58年に大阪、平成5年に名古屋、平成20年に滋賀へも営業所を出し、現在では医薬品関連印刷が85%以上を占め、県外売上も60%を超えています。
 もし、昭和52年に県外へ出ていなかったら、売上は半分以下になっていたと思うとぞっとします。県外進出と新工場建設は、当社の一大転機だったと思っています。


当所青年部と青年会議所に同時入会


 昭和50年2月に青年会議所と新設の商工会議所青年部に同時に入会しました。青年部は最初から卒業まで役付きで、昭和57年には第7代会長も務め、大変だったけれども、今ではよき思い出になってます。いろいろな行事に携わり、また、深夜まで大いに飲み、歌いましたが、そのため青年会議所は飲み会と麻雀以外は殆どお役に立てませんでしたね。


「世のため人のため」を伝承


 昨年社長を退任し、次世代へ引継ぎましたが、財務基盤がようやく少しずつ整い始めた今、思いきった経営を期待しています。
 当社の先代は仏心の篤い人で、当社の社風にも色濃く受け継がれています。盆暮れの2回、僧侶をお招きして物故社員の法要を催し、全員で読経し焼香することが何十年にも亘り続いています。
 また、先代は昭和24年に法隆寺を訪れて以来、歴代の管長の知遇を得、法隆寺信徒総代を拝命し、平成8年から私も任命されております。
 会社経営とは異なり、信仰の伝承はなかなかに大変だと思いますが、折角の縁ですので「世のため、人(社員)のため」にも受け継いでもらえればと思っています。
 毎年3月22日に聖徳太子のお会式(命日法会)があり、前後3日間の神社仏閣巡りの団体旅行を67年続けておりますが、これもできる限り続けたいと思っています。(談)



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