会報「商工とやま」平成28年1月号

シリーズ/おじゃましま〜す
 当所国際交流委員会委員長 朝日 重剛 氏
(当所常議員・朝日印刷株式会社代表取締役会長)


 富山商工会議所の活動を支えていただいている委員長の皆さんを訪ね、時には仕事を離れて、ご自身のこれまでの歩みや明日への期待などについてお話を伺った。


140年を経て朝日活版所始まりの地に


 当社は、明治5年に魚津市にて創業した小澤活版印刷所が前身で、県庁や役所の仕事をはじめ一般商業印刷などを扱い、順調に事業を拡大してきました。会社の所在地も、明治22年には富山市一番町に移転し、翌23年に商号を朝日活版所に変更しています。今年4月に本社を移した「一番町スクエアビル」の建つ場所が、まさに朝日活版所の始まりの地になるのです。創業140年を超えて、再びこの地に戻ってきたことは、感慨深いものがあります。
 私の父、朝日重利は戦前に事業を受け継ぎ、印刷機を近代化するなどして業績を伸ばしてきましたが、昭和20年の富山大空襲で印刷所は全焼。設備のすべてを失いました。しかし、翌21年には朝日印刷紙器(株)を設立して社長に就任し、いち早く復興に立ち上がっているのです。
 その翌年、重利の長男である私が生まれました。7歳はなれた姉に次いでの長男ということもあり、父は私の将来に熱い思いを寄せていたと思います。中学・高校時代には他の仕事に興味を持った時期もありましたが、大学は父の勧めた大学に進学しました。

一業に徹する大転換


 今も最も尊敬するのは父です。父の経営はダイナミックでした。昭和33年に新しい国民健康保険法が制定され、国民皆保険の時代が来ると見るや、それまでの県庁や市役所、一般商業印刷などから薬分野の印刷だけに絞り込み、一業に徹するという大転換を図ったのです。今から思えば、先見の明があったということです。
 父からは、「易きにつかず、難しいものこそ我が社の道」と仕込まれました。つまり、人が嫌がる難しい仕事は同業他社が避けたがる。だからそこに付加価値が生まれる。そして、その仕事に携わる従業員は宝。この方針は今も変わらず、我が社の自慢です。

全国の営業所を回り、社内のすべての部署を経験


 大学卒業後、中堅の印刷会社を経て、朝日印刷に入社しました。入社後は、それぞれが短期間でしたが、社内のすべての部署を経験してきました。若い時の勉強と経験は私の財産となっています。
 また、東京での研修を終えて富山に戻り営業を担当した時には、東北から九州まで全国を回わって、取引先の皆さんに「営業とはなんぞや」といろいろと教えていただきました。大変と言えば大変な時期でしたが、とてもありがたく、営業冥利に尽きると思っています。


1、000社のお客様へのこだわり


 今、約1、000社の得意先と取引があります。そのうちの数社で売上の大きな割合を占めるということはありません。ですから、約1、000社すべての得意先への営業に強弱をつけることはできません。
 そのための当社のこだわりとして、お客様から電話をいただいたら1時間以内に訪問する。また、お客様が市外局番をかけずに済む範囲内に営業拠点を置く。を徹底しています。
 本社が富山だからといって、お客様への訪問が遅れていては競争になりませんし、お客様が市外局番からダイヤルすることで、遠い存在に感じられることがないように、こだわりをもってやっています。


7合目から先への挑戦に期待


 まだまだ父を越えることはできませんが、山登りに例えて、自分が目指す会社の姿を頂上とすれば、今は6〜7合目というところでしょうか。
 私の好きな言葉は、父から受け継いでいる「ほどほど」です。そして「先(ま)ず和(わ)して而(しか)る後(のち)に大事(だいじ)を造(な)す」を座右の銘としています。組織の意思統一があってはじめて大きな仕事を成し遂げることができる。という意味です。
 次の世代の皆さんには、これらの言葉をしっかりと受け止めていただき、7合目から頂上を目指す、さらなる挑戦を期待しています。(談)



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