会報「商工とやま」平成28年7月号

シリーズ 老舗企業に学ぶ25
歴史ある商店街から、新鮮味のある商品を 最上陶器店


 歴史ある店が立ち並ぶ富山市千石町通り商店街で、137年にわたって陶器店を営む「最上陶器店」。陶磁器だけでなく、ガラス製品、漆器など家庭用から業務用、そして記念品に至るまで、取り扱う商品は多種多彩です。同店の歴史について、店の三代目である最上哲夫さんにお話を伺いました。


明治12年に創業


 最上陶器店は、初代の最上久平さんが明治12年に富山市一番町(現在の千石町通り商店街)で創業したのが始まりです。
 「祖父の久平は最上家の5人兄弟の長男で、売薬や繊維関係の製造販売などの多角経営をしており、その事業の一つとして九谷焼、有田焼、瀬戸焼などの陶磁器の販売を始めました。店を従業員に任せながら営んでいたようです。いまでもよく言われる『唐津もの』とは、佐賀県の唐津の港から運ばれた焼き物だったため、一般にそう呼ばれるようになったと言われています。
 また、久平の弟で次男の吉田外次郎さんも太田口通りに店を構え、富山県で一番の陶磁器商として知られていました。当時はとてもいい商売だったのです」
 哲夫さんによると、最上家の歴史をさらに遡れば富山藩の御典医の10人のうちの1人が先祖だったという話も聞いているそうですが、戦災ですべてが焼失してしまったこともあり、詳しい資料は残っていないとのことです。
 千石町通りの名前の由来は、富山城の千石御蔵があったことに因むとされ、お城との関係も深い歴史ある土地です。詳しく調べると、関連する文献なども残っているかもしれません。


娘の八代さんが継承


 その後、久平さんの娘の八代(やよ)さんが、喜三郎さんと結婚し、家業を継ぎました。
 「母の八代の兄弟が亡くなってしまったため、母が店を継ぐことになり、新湊で医者をしていた家から父は婿に来ました。
 父の喜三郎は高岡高等商業学校(現・富山大学経済学部)を卒業後、日産化学工業の東京本社や富山で勤務したサラリーマンで、会社での仕事をしながら、時間のあるときは家業も手伝っていました」
 夫妻は5人の男の子に恵まれ、昭和10年には後に代表となる、次男の哲夫さんが誕生しました。
 「祖父の久平も八代も真面目によく働いた人でした。久平はお金をとても大事にした人で、お札にアイロンを当てていたほど。商才もあり、まちなかに不動産なども購入していました。現在も、この店の隣などで複数の貸店舗を営んでいるのは、祖父が努力家だったお陰です」


富山大空襲を経て再建へ


 昭和20年の8月1日の富山大空襲の日には、小杉の疎開先から帰ってきていた哲夫さんの兄弟も皆、家にいたと言います。
 「私は小学校4年生で、あの日は銭湯から7時すぎに帰ってきていたと思います。就寝してまもなく空襲警報が鳴りました。父は自転車の後ろにラジオと時計をつけて、母は一番下の1歳の弟を背負って逃げた姿を憶えています。お陰さまで両親、祖母兄弟も皆、無事でした。一方で、富山大橋の方面に逃げた人の多くは亡くなり、防空壕に入って一家全滅という方もおられました」
 その後、最上家の皆さんは速星の日産化学の社宅に滞在し、焼け跡にバラックを建てて、昭和21年には店を再開しました。
 「商店街の半分ほどの方は再建されて商売をやっておられたと思います。父も会社に勤めながら店の経営の援助をしていました。私たち兄弟は総曲輪小学校に通っていましたが、戦争中は小杉に疎開して、そこの小学校に通ったり、また戦後は速星の小学校に通ったりと転校続きでした。転校先では、まちなかに住んでいたこともあり生意気だと、よくいじめられたものでした」
 戦後の復興期の物資がない時代、再興を始めたまちなかの商店街では、たくさんの人で賑わいました。千石町通りも活気に満ちあふれた商店街となっていきました。


昭和31年から店を継承


 昭和29年に富山中部高校を卒業した哲夫さんは、商売を継ぐことになり、親戚の紹介で大阪の建築金物メーカー関連の商社に修行に出ます。そのほかの4人の兄弟は東京の大学などへ進学しました。そして、哲夫さんは2年後に富山に戻り、昭和31年から家業を継ぐことになりました。
 「戦後から昭和40年代までは父が勤めていた日産化学に売店があり、その売店では、いまのスーパーに負けないくらい、いろいろな商品を安く販売していて、その売店にも瀬戸物を数多く納めていました。当時は本当によく売れたものでした」


スーパーや小売店にも卸して


 昭和40年代以降は、哲夫さんも積極的に外商に出て、青海(新潟県)の大手企業などの得意先も獲得していったそうです。
 「旧大和の隣には丸大百貨店があり、そこにも品物を納めていました。昔から商売をやっていたお陰で、仕入れルートも九州、九谷、多治見、瀬戸など実にさまざまで、ありがたいことでしたね」
 昭和40年代後半から50年代に入ると、スーパーも次々と誕生していきましたが、最上陶器店ではそれらのスーパーや小売店にも商品を卸していくことができました。
 「多いときで5〜6人の従業員で一所懸命やっていました」と哲夫さんは振り返ります。
 昭和45年には孝子さんと結婚し、昭和49年には息子の貴央さんが誕生しました。
 また、哲夫さんは長年にわたり富山市商店街連盟の会長や地元の千石町通り商店街振興組合の理事長を務め、商店街の発展のために尽力しました。


一般客、業務用も多彩に


 現代はものに満ちあふれた時代となり、人々の暮らしの変化や嗜好の多様性など、時代は大きく変わり、陶器店を営む人も減っています。
 そんななかでも最上陶器店では、長年にわたる商売のなかで、九谷焼、有田焼、ガラス製品などの高級品から日用品まで、窯元や産地の商社など、さまざまな仕入れルートがあり、多彩な品揃えを誇ります。個人客への店舗販売はもちろん、飲食店や旅館などの大口の顧客への業務用食器の販売も積極的に行っています。
 また、息子の貴央さんも約10年前から店に入り、現在は哲夫さん、孝子さん、貴央さんの3人で経営にあたります。哲夫さんは、今後、全国的な見本市などにも積極的に足を運ぶ予定とか。多種多彩なメーカーの新しい動きなどを捉え、個人客、飲食店などの顧客にもさらに満足していただける、新鮮味のあるいい商品を提供していきたいと語ります。


こだわりの店舗がいっぱい


 千石町通り商店街には長年の歴史を誇るお店やユニークな特徴のあるお店がいくつもあります。現在は32店舗とのことですが、最上陶器店のほかにも肉屋、寿司店、県内唯一の法衣店、菓子店、家具店、ギャラリー、アイスクリーム屋、お茶屋、昆布屋、中華料理店など、業種もさまざまで実に多彩な店が軒を連ねます。『がんこもん』という映画も製作されたように、こだわりをもったお店が集まる元気な商店街です。
 最上陶器店では最近はアメリカやヨーロッパからのお客さんが増え、昔ながらのラーメンの丼など、意外な物を買って行かれることも多いそうです。同店では陶磁器などの食器や漆器、土鍋、招き猫などの置物、IH対応の商品、ガラス食器などのほか、日展作家の作品など高級品も取り扱っています。歴史ある商店街でお買い物を楽しんでみませんか。


最上陶器店
富山市一番町4−25(千石町通り商店街)
TEL:076−421−3543

●主な歴史
明治12年に初代、最上久平さんが富山市一番町で陶器店を創業
昭和20年、二代目八代さんが継承