会報「商工とやま」平成29年11月号

シリーズ 老舗企業に学ぶ38
人のつながりを大切にし、看板を引き継ぐ 有限会社こでら


 県内の総合病院などに青果物を卸している「有限会社こでら」は、明治38年に「八百屋こでら」として富山市常盤町に創業しました。平成19年には「大松青果株式会社」へ経営譲渡し、同社のグループ会社の一つとなりました。有限会社こでらの社長で、グループ会社10社を統括する大松青果株式会社社長の大井山行雄さんにお話を伺いました。

112年前に創業


 こでらの歩みは、青果物の流通事情の変遷、戦後の青果市場整備などを知ることで、より深く理解することができます。有限会社こでらの社長で、大松青果株式会社社長の大井山行雄さんは、さまざまな書類を紐解き、こでらについて市場の歴史に沿って説明してくださいました。
 「こでらの創業者である小寺栄蔵は、112年前、富山市常盤町で八百屋を始めました。昭和48年に富山市中央卸売市場(平成23年から「富山市公設地方卸売市場」に名称変更)ができる前の旧富山市内では、民間の会社が3カ所の青果市場を営んでおり、こでらもそこから仕入れて商売をしていたと聞いています」
 戦前に八百屋などの小売業を商っていた個人商店の多くは、戦後に仲卸業も兼ねるようになり、法人化して市場内に事業所を置くようになりました。こでらでも、富山市中央卸売市場の開設に合わせて、仲卸部門を独立させた株式社丸天青果を市場内に設立しました。



大松青果へ経営を譲渡


 昭和50年頃から、青果物業界の環境は、相次ぐ大手スーパーの進出などによって大きく変わり、さらなる効率化が求められるようになりました。そのため、経営が難しくなったことに加え、後継者がいないという問題から、こでらと丸天青果は、経営譲渡という道を選択し、平成19年に大松青果の傘下に入りました。
 しかし、大松青果に経営を譲渡した後も社名が残っています。
 「一般的に、企業の吸収合併が行われた場合、吸収された側の社名は残らないことが多いのですが、それぞれに伝統と得意先を持っているから残しました。グループ会社の経理は1カ所にまとめていますが、それぞれの会社で営業部門を設けています」と大井山さん。大松青果へ譲渡された後も、「こでら」と「丸天青果」のブランドを大切にしています。



青果物の老舗、大松青果


 ここで、大松青果についても歴史を振り返りたいと思います。
 創業者は大井山松太郎さんで、昭和7年から富山駅前で青果物の小売業を営みました。二代目は、松太郎さんの長男・良之助さん、三代目は、良之助さんの次男・榮治さん、そして四代目は、榮治さんの長女・芳子さんの夫である大井山行雄さんへと事業を承継してきました。
 法人化したのは同43年で、この頃は富山市五福で卸売業を営んでいました。その後、富山市中央卸売市場開設に合わせて入場しました。
 大井山さんは、高岡市の出身で、実家は御旅屋通りで「中村靴店」を営んでいました。富山市内にあるワシントンホテル(現・マンテンホテル)に就職し、ホテル内の飲食店の店長を務めたこともあります。25歳で結婚すると同時に大松青果へ入り、社長になったのは34歳の時でした。
 「ホテルは、午前3時が終業時刻でしたが、市場に勤務するようになるとこの時刻が始業になり、仕事とプライベートの時間が逆転しました」
 野菜を見ても、キャベツ・大根・白菜程度しか分からないところからのスタートだったそうです。とはいえ、もともと「商売人の子」であったことから、小売と仲卸という立場こそ違いますが、経営に魅力を感じていたようです。
 「ホテルに勤務していたころ、野菜が足りなくなると、常盤町の八百屋こでらへ買いに行ったこともありました。しっかり者の奥さんが店に出ておられた思い出があります。十余年後に自分が店の代表になっているなんて、夢にも思いませんでした」



大松青果とともに


 大松青果は、現在、青果物を扱う北陸最大の仲卸業者となり、大井山さんは、グループ会社10社のうち、こでら・丸天青果を含む5社で代表を務めています。300人以上の従業員を抱え、コミュニケーションを密にして組織を動かしていくことを大切にしています。
 「顧客だけでなく従業員との信頼関係・つながりがあってこそ」という思いがあり、大松青果と関連会社の定年は60歳ですが、本人が希望すれば70歳まで働くことができるようになっています。
 こでらと丸天青果はその伝統とともに、人とのつながりを大切にする大松グループの下で発展を続けます。
 現在のこでらの主な取引先は、富山県立中央病院、富山大学附属病院、富山市民病院など県内の総合病院のほか、社員食堂がある企業などとも契約しており、野菜・果物は、カットなどの加工も手掛けています。



生産者と消費者の間に


 大井山さんは、青果物卸売業界の今後について次のように話してくださいました。
 「我々は、長期保存ができない青果物を、生産者と小売店のため、需要と供給の調整などを毎日行います。例えば、青果物が不作の時でも、小売店のために必要な野菜や果物を集めます。それにはネットワークが必要となりますが、それに必要なのは、人・もの・お金そして情報です。今後はさらに情報が必要になると思います」
 さらに、「青果物は鮮度が命です。全国にはいろいろな産地はありますが、県内や近隣の県から仕入れると最も鮮度の良い商品がそろいます。したがって、青果物卸売業の仕事は、粗利が低いうえ、始業時刻が早く大変ですが、たとえ規模が小さくなっても、地元の青果物卸売業者はなくなることはない」と分析します。
 富山県は、野菜の産出額(イモ類を除く)が全国最下位です。そこで県内では、休耕田を活用した野菜の栽培やブランド野菜の育成などに力をいれています。こでらをはじめ青果物業を営む大松青果グループも、生産者と消費者の間に立ち、地元産野菜の認知度向上に貢献したいと考えています。
 こでらは、人のつながりを大切にしながら、現在も大松青果グループの一員として、地域の台所に不可欠な市場を支えています。物流が進化し、流通の仕組みが変わっても、青果物を商う人のマインドは変わらないようです。




有限会社こでら
富山市掛尾町500(富山市公設地方卸売市場内)
TEL076−495−2185

●主な歴史
明治38年(1905年) 小寺栄蔵が常盤町で八百屋こでらを創業。
昭和45年(1970年)小寺悦男が二代目店主となる。
昭和48年(1973年)富山市中央卸売市場の開設に合わせて、有限会社こでらから仲卸部門を切り離し、株式会社丸天青果を設立。
昭和49年(1974年) 白川隆弘が社長(三代目)となる。
平成19年(2007年)有限会社こでらと、株式会社丸天青果は、大松青果株式会社の傘下に入り、大井山行雄が社長(四代目)となる。