会報「商工とやま」平成29年8・9月号

シリーズ 老舗企業に学ぶ35
北陸で初のガラス工場 富山のガラス産業の源に 村山ガラス本店


 村山ガラス店は慶応2年(1866年)に創業し、150年近い歴史を重ねてきました。薬を入れるガラス容器を作ってきた歴史があり、「ガラスの街・富山」の源流ともいえます。村山家は代表が若くして亡くなったり、子宝に恵まれなかったことなどがあったため、養子縁組をしたり、女性が切り盛りして存続してきました。同店の歴史について、四代目代表の村山和雄さんと奥様の美代子さんにお話を伺いました。


横浜で修業した源次郎が開業


 ガラスのことをまだ「ギヤマン」と呼ぶ人がいたころ、初代の村山源次郎さんは横浜へガラス製造の修業に出かけました。その後、技術を身に付けてUターンし、慶応2年(1866年)に総曲輪で店舗兼工場として「岩瀬屋 村山ガラス店」を構えたのが村山ガラス店の始まりです。同年に二代目となる直太郎さんが誕生します。
 「創業といっても、当時は店と小さな工場が一緒になった『工房』のようなものだったそうです。ガラスを作るための珪砂(ケイシャ)などの原料は、石炭の熱を使って、窯(かま)で溶解していました。源次郎は横浜で吹きガラスの技法を習得してきたので、丸みを帯びた形のものが当時の主力商品でした。例えば、ランプのホヤや瓶などです」
 日本のガラス産業は、明治以降に石油ランプが普及したことにより発展しました。村山ガラス店では、店のホヤを使ったランプを立山連峰の山小屋の多くに納めていました。また、製薬業がさかんな富山県は家庭配置薬業界との係わりが深いため、丸薬や水薬などの容器のニーズがありました。村山ガラス店は北陸で初のガラス工場であり、薬瓶を多く製造していました。
 明治32年には富山城の大火により店舗兼工場が焼失し、店の場所はそのままに、工場を桜木町へ移転しました。身長が180センチ以上あり、大柄だったいう二代目の直太郎さんは、先代から引き継いだ器用さに加え、人望があったようで、2本の煙突が立つ工場には、常時20人から30人の職人がいたそうです。
 直太郎さんは、当所の前身、富山商業会議所の議員としても活躍し、地域経済の発展に尽力しました。
 三代目の健太郎さんは、直太郎さんの妹・サトさんの息子、つまり甥にあたります。昭和16年に直太郎さんが亡くなると、すでに店を手伝っていた健太郎さんが代表となりましたが、翌年に45歳の若さで急逝しました。
 健太郎さんも後継者に恵まれず、妻ミヨさんの実家から養子を迎えました。それが四代目の和雄さんで、ミヨさんの甥にあたります。その後、和雄さんが事業を継ぐまで代表は不在でした。その間、直太郎さんの奥様キセさんとミヨさんが店を切り盛りしていたそうです。



戦中戦後を乗り切ったミヨさん


 「ミヨは小柄な女性でしたが、たくましい人でした。戦中は、富山市の中心部は空襲があったため、ミヨは着の身着のまま水橋地区へ疎開しました。商品は店に置いたままにしていましたので、富山大空襲では店ごと跡形もなくなってしまったそうです。ガラスは700度で溶けますから、大空襲の威力が分かります」
 キセさんは富山大空襲で亡くなってしまいましたが、一命をとりとめたミヨさんは、戦後、現在の店舗がある中央通りに店を再建しました。従業員は全員戦死したため、工場はなくして、女性が一人でもできる小売店だけという事業内容に変更しました。
 ミヨさんは95歳になるまで店に立ち、平成10年に96歳で他界しました。和雄さんと美代子さんはミヨさんの遺影を店内に飾り、時々懐かしく思い出しています。
 村山家にとってミヨさんは、NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の中で柴咲コウさんが演じる直虎のような存在でした。
 戦中・戦後の男性経営者が不在だった時期を乗り切り、後継者の和雄さんにバトンをつないだのです。



本物の商品を届けたい


 和雄さんは昭和37年に富山商業高校を卒業し、数年間は板ガラスを扱う卸売業者で修業した後、同40年に村山ガラス店の四代目となりました。昭和の半ばから末期にかけては記念品・贈答品用のグラスなどが良く売れました。和雄さんは、中央通り商店街が大勢の人でいっぱいになった初売りの様子を鮮明に覚えているそうです。
 最近では、100円ショップで見られるような、外国製の安価なガラスコップなどが多く出回り、消費者は安い物を選んで買う傾向にあります。一方、村山ガラス店では、日本製を中心に、こだわりの商品を販売していますが、決して高い値段ではありません。お客様に少しでも安く、使い勝手が良いものを提供することが初代からの教えだそうです。



奥が深いガラス


 美代子さんは約30年前、市民大学でガラス工芸を学んだ経験があります。硬いダイヤでガラスに模様を刻む「ダイヤモンドポイント」や、エナメルの絵付け、吹きガラスなどを学んだそうで、その時の作品は、今も店内に飾ってあります。
 「日本人にとってガラスは大変貴重で、昔から美術品としても大切にされてきました。ガラスはとても奥が深く、これからもずっと勉強していかなければならないと思っています」
 富山市が力を入れているガラスを中心とした街づくりについては、以前から関心を寄せていたそうです。ガラス造形研究所やガラス工房ができ、多くの作家が育ち、ガラス美術館が完成した過程を見ながら、「富山のガラス産業の原点は、150年以上前に村山源次郎が横浜でガラス作りを学んできたこと」という自負があります。
 「チェコやイタリアなど欧州の各地では、多くの小さな工房が細々と伝統を引き継いでいます。立派な施設のある富山は、今後ガラス産業がさらに発展する可能性があります」
 富山のガラス産業を見てきた商店主ならではの視点があります。



村山ガラス本店
富山市中央通り1丁目5−2
TEL076−421−9963
●主な歴史
慶応2年(1866年) 横浜でガラスの製造方法を学んできた村山源次郎が店舗兼工場として「岩瀬屋村山ガラス店」を総曲輪に構える。同年に後に二代目となる直太郎が誕生。
明治32年(1899年) 富山城の大火により店舗兼工場が焼失、店はそのままとし、工場を桜木町へ移転。
大正8年(1919年) 源次郎の死去に伴い、直太郎が代表に。
昭和16年(1941年) 直太郎の死去に伴い、すでに店を手伝っていた三代目健太郎が代表に。
昭和17年(1942年) 健太郎が急逝し、直太郎の妻キセと健太郎の妻ミヨが戦中・戦後と店を切り盛りする。
昭和20年(1945年) 富山大空襲で店舗・工場とも焼失、戦後に中央通りで店舗を再建。
昭和40年(1965年) 和雄が四代目代表となる。