「商工とやま」平成14年6月号

富山市価値創造プロジェクト(3) 富山のくすりついて語ろう


 「富山」といえば、「くすり」のイメージがあり、特に、県外の方の多くが「くすりの富山」のイメージを語ります。現在撮影中の松竹映画「釣りバカ日誌13」も富山の製薬会社が舞台となっています。今回は、富山市の価値資源の1つである「富山のくすり」について「話し」てみます。


●富山の配置家庭薬の起こり

前田正甫公像(富山城址公園内)

 富山10万石の二代藩主・前田正甫公の家来・日比野小兵衛が藩命で長崎にいたとき、備前(岡山)の万代常閑という医師から「反魂丹」という薬をもらって帰藩したことが、事の始まりです。その後、正甫公が腹痛をおこした折に、この「反魂丹」を服用したところ、腹痛がたちまちに収まったため、その効き目に驚き、常閑を富山に招いて、薬の作り方を教わりました。

 それから7年後の元禄3年(1690年)の江戸城内。急に腹痛をおこした岩代三春藩(福島)の大名・秋田河内守に正甫公は反魂丹を取り出して与えた途端、腹痛が治り回復。これを見た諸藩の大名たちは「ぜひ自分の領内で売ってほしい」と正甫公に頼みました。

 そこで彼は、富山城下の薬屋・松井屋源右衛門に「反魂丹」を作らせ、八重崎屋源六を使って諸国で販売させたのが富山の売薬の始まりだというお話です。お聞きになったことがあるでしょう。

●人材の育成に注心

 河川の氾濫などの自然災害が多く、貧しかった富山藩では、この薬を中心産業に育てて豊かになろうとして学校を作り、読み書きソロバン、それに薬学の基礎知識を身につけた人材を育てました。また、十代藩主利保公は自ら本草学を学び、「本草通串」を著しています。こうしたことが現在にも続く人材立県につながっているようです。


●反魂丹の名前の由来

 次のような言い伝えがあります。

 その昔、ある武士が母親の病気回復を願って立山に登ったところ、阿弥陀如来が現われて薬を授かり、直ぐに母親に飲ませようと、帰宅しましたが、既に死んでいました。

 しかし、せめてもと、死んだ母親の口にその薬を含ませたところ、なんと、母親は生き返り、「あの世で、阿弥陀様に"まだ来るのは早い、早く返れ"と背中をたたかれて息を吹き返した」と言うのです。体に魂を返してくれる薬という意味で、「反魂丹」の名が付けられたといいます。


●先用後利は奉仕的精神

売薬行商人の像(富山駅南シック前広場)

 富山のくすり屋さんの商業スタイルは「先用後利」(用を先に、利を後にせよ)という独特な商法で、300年の間、全国の人々に愛されてきました。先ず、お得意先に薬を預けます。次回の訪問時に使用されただけの薬代を集金し、さらに薬を補充するというもので、現金収入の少なかった江戸時代の農山村や漁村では大変重宝されました。


●得意先のデータベース「懸場帳」

 顧客名簿である「懸場帳」には、お得意先ごとにどんな薬がどれだけ売れたかなどが細かく記入されています。このいわば「得意先データベース」に記載された薬の種類や量をもとに、富山のくすり屋さんは、その家の家族が罹りやすい病気とその予防法をアドバイスしてきました。まさに現代に通用するビジネスモデルといえるでしょう。


●近代化に貢献した薬種商

 くすりの原材料は、薬種商といわれる商人が主に大阪などから仕入れ、それを売薬業者に売っていました。後に「他所で仕入れた薬種で反魂丹を作ったり、薬種商の知らない売薬行商人があってはならない」という決まりができ、薬種商を中心とする反魂丹製造の仕組みができあがっていきました。

 薬種商は問屋業務だけでなく、自らも製薬を手がけたりして次第に資本を蓄積し、明治に入ると金融や繊維、鉄道、電力など多くの分野に資本を投じて、富山県の近代化に大きな貢献をしました。

 このような薬種商は、戦前まで富山市内に30軒ほどありましたが、昭和20年の富山大空襲でそのほとんどが焼失し、市街地から少し離れたところ(新庄町)にあった金岡邸だけがかろうじて焼け残ったのです。


●金岡邸(薬種商の館)

金岡邸

 明治初期の薬種商の面影を残す金岡邸は、現在は県民会館分館として一般に公開されています。

 玄関を入って正面の壁一面を埋める百味箪笥(ひゃくみだんす)と呼ばれる薬たんすには万延元年(1860)の文字があります。店の片隅には、昭和58年の富山県の置県百年を記念して中国科学院から寄贈されたジャコウジカの剥製が展示されています(現在はワシントン条約で取引が禁止されており、日本に6体しかない貴重なものですが、「釣りバカ日誌13」のロケの際に、製薬会社「天狗堂」の会長室の調度品として一時的に貸し出されました)。

 売薬展示室には170種の生薬や薬の製造に使われていた薬研や乳鉢、売薬行商人が訪れる先々にお土産として持って行った紙風船や版画なども展示されています。


●廣貫堂資料館

廣貫堂資料館

 廃藩置県により富山藩におかれた「反魂丹役所」が廃止されましたが、それを引継いで明治9年に設立されたのが民営の「富山廣貫堂」(現栢A貫堂)で、「寒村僻地にまで"広"く救療の志を"貫"通せよ」と教えた正甫公の志を現して社名を「廣貫堂」としたそうです。その白壁土蔵造りの資料館には、「売薬版画」や薬業史上貴重な「古文書」などが展示されているほか、「富山のくすりの歴史と製造工程の今昔」を映像で楽しく分かりやすく紹介しています。


●売薬資料館(富山市民俗民芸村内)

 また、富山市民俗民芸村の中にある売薬資料館には、「売薬」の歴史、売薬の製造や行商に用いた用具、売薬版画などの土産品などが多数展示されおり、津々浦々に薬を運び、文化を伝え、人々の健康を守り続けてきた富山売薬を理解することができます。


●売薬版画はおまけ商法の元祖

売薬版画

 娯楽の少なかった時代において、地方の人が心待ちにしていたのが富山のくすり屋さんが持ってきてくれる「売薬版画」でした。これは、江戸時代後期頃から主として売薬商人が進物(おまけ)として得意先に配った浮世絵風の版画のことで、歌舞伎の名場面や役者絵、名所絵などが印刷されていました。日本のおまけ商法の元祖の一つともいわれ、紙ふうせん以前の売薬進物の主流でした。一時期を除いて、富山の絵師が描き、富山の彫師が版木を彫って富山の紙に印刷され、後の富山のデザイン業や印刷業、製紙業などの産業に発展していきました。


●水橋郷土史料館

 富山市水橋地区にも昔から売薬さんが多く、水橋郷土史料館にも「水橋売薬」の関係用具(行商・製造)や信仰儀礼器具、古文書等が展示されています。


●伝統ある富山医科薬科大学薬学部

 明治維新後には西洋薬学が移入され、それまでの和漢薬を中心にした「富山のくすり」は大きな転機を迎えましたが、当時の有力者たちの手によって「共立富山薬学校」が創立されました(明治26年)。これがのちに全国初の県立薬学専門学校の創立(明治43年)、官立薬学専門学校(富山薬専)への改組(大正10年)につながり、戦後の富山大学薬学部そして現在の富山医科薬科大学薬学部へと伝統と研究成果が受け継がれ、県内の売薬産業を含めた製薬・化学業界の発展に貢献しています。


●医療用から配置薬まで

 富山のくすりは、長い歴史の中で、消費者の厚い信頼を得てきました。

 県内には、100を超える医薬品メーカーがあり、今でもGMP(医薬品の製造管理及び品質管理規制)に基づいた最新の設備によって、厳選された原料の入荷から製造・衛生管理を行い、医療用から配置用・店舗用にと多様なニーズに応えています。


 今回ご紹介した「富山のくすり」に関する話のほかにも、知られざる富山の価値や新しい発見もあるかと思います。ご家族や会社などでお互いに「富山の自慢」を話しあってみてはいかがですか。

≪薬業関係展示施設≫※休館日などがありますのでお出かけの際はご確認ください。
 富山市売薬資料館(富山市安養坊980) 076-433-2866
 金岡邸(薬種商の館)(富山市新庄町1-5-24) 076-433-1684
 廣貫堂資料館(富山市梅沢町2-9-1) 076-424-2271
 池田屋安兵衛商店(富山市堤町通り1-3-5) 076-425-1871
 水橋郷土史料館(富山市水橋館町717) 076-479-0081
 富山医科薬科大学(富山市杉谷2630) 076-434-2281


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