富山市価値創造プロジェクト4

富山の街づくりにかけた先人の情熱


◆現在の県庁敷地は神通川だった
 今から100年ほど前までの神通川は、当時富山城址の北側、現在の県庁や市役所のあたりを大きく湾曲して流れており、このため毎年のように市街地に洪水の被害をもたらしていました。特に、明治29年には4回も氾濫し、当時の富山市の4分の3が濁流に洗われる惨事となりました。そこで、市会を中心に陳情活動を行い、神通川を鵯島(現在の富山大橋付近)から、北に向かって直流・分水させる「馳せ越し工事」を行ったのです。

◆馳せ越し工事
 この工事は、先ず、新たな河道となる部分の中央部に幅2m、深さ1・5mほどの細い流路(排水路)を設け、出水時の流水の力を利用して徐々に川幅を広げることを期待するもので、20世紀が始まった明治34年に工事に着手し、36年に完成しました。暫くは、旧本川(旧河道)と排水路(新河道)が併存するかたちが続きましたが、流路は次第に排水路に移り、大正3年の大洪水は流路の変更を決定づけ、この馳せ越し排水路が本流になったと考えられます。
 ところで、「馳せ越し」とは、増水した川の水が堤防を乗り越え、度々水が溢れたので、「山から馳せて来た水が堤を越すところ」という意味から「馳せ越し」と地名で呼ばれたことが発祥ということです。

◆神通川廃川地が残った
 現在、富山市で「廃川地」(はいせんち)という通称地名を知る人はかなり少なくなってきています。大正10年に、東流する旧本川と新河道(馳せ越し線)の間を閉め切ったので、旧本川(現在の松川に沿って北側に帯状に続く幅200〜300mの地帯)は、後世にかつての神通川の川筋を伝えるため残されることとなった現在の松川を除いて、完全に廃川地となり、荒れ地と化していきました。

◆廃川地の埋め立ての都市計画事業
 この廃川地は、明治41年に現在地に移転された富山駅や橋北地区(旧河道に架けられた舟橋、それに続いた神通橋の北側地区)と中心部を分断し、富山市の発展を妨げることになるため、当時の富山市にとってこの廃川地の整備は大きな課題でありました。
 この障害を取り除き、近代都市富山にふさわしい街を創ろうと、廃川地を埋め立てして、全国初の公共団体施行による都心区画整理事業で新市街地を造る「富山都市計画事業」を昭和4年から行うことになりました。

◆埋め立て土砂はどこから調達するか
 問題は、約120ヘクタールの廃川地を埋め立てるには、116万立方mの土砂が必要となりますが、その土砂をどこから持ってくるのかということでした。@神通川を掘削するA呉羽山を崩してその土を運ぶB運河を開削して、掘削土をそれにあて、運河を東岩瀬港につないで、運河沿岸に工業地帯の造成を図る、などいくつもの案が話題となりましたが、結局は一石二鳥のB運河建設案が採用されました。

◆富岩運河の開削
 富岩運河の掘削と廃川地の埋め立て工事は、昭和5年6月から着手され、9年7月まで要しました。運河の水路は、東岩瀬港の南端を入り口に神通川右岸に沿うようにして富山駅北の船溜まりに達するもので、延長約5km、幅は約60〜42m、水深は約2・5mとされ、200トン級の船舶の航行が可能とするものでした。
 この富岩運河の掘削で出た大量の土砂は、神通川の廃川地の埋め立てに使われ、そこに県庁や市役所などが建てられたわけです。

◆中島閘門は国の重要文化財
 富岩運河のほぼ中間地点の中島に2対の鋼鉄製扉を有する中島閘門(長さ60m、幅9m)が設けられ、上下約2mの水位差を調整、戦前戦後を通して、多くの船や物資が行き来しました。また、富岩運河沿いには、多くの工場が立地し、富山県経済を発展させました。しかし、高度経済成長期になると、トラック輸送が主流になったこともあって、活躍の場を失った中島閘門でしたが、富岩運河の整備にあわせて実施された改修工事により蘇り、平成10年には国の重要文化財(近代化遺産)に指定されました。

◆廃川地に新町名
 このように、富岩運河の掘削土砂で埋め立てられた廃川地では土地区画整理事業が行われ、市街化を先導する形で、昭和10年8月、富山県新庁舎が現在地に落成したほか、富山放送局(NHK)や電気ビルなどの建物が次々に建てられ、この地区の新しい町割りが行われました。
 そこで、この廃川地の町名案を一般から公募することになり、その結果、芝園町、舟橋南町、舟橋北町、安住町、新総曲輪、表町(現新総曲輪の一部となる)、新桜町、桜橋通り、千歳町、赤江町、牛島新町、奥田新町、湊町(現湊入船町)、入船町(現湊入船町)、木場町の15の新しい町が誕生しました。

◆逆境をバネに新しい街づくりを進めた
 明治以降の富山の街は、度重なる水害や戦災の被害を受けてきましたが、その度に、市民の勤勉実直で質実剛健、合理的精神で、新しい街を創ってきました。
 神通川の河道の変更は洪水から市民の生命・財産を守る目的がありましたが、それに伴って発生した廃川地120ヘクタールの整備と活用は、その後の富山市の発展に大いに貢献しました。
 また、市街地を灰燼に化した富山大空襲後の素早い戦災復興計画の立案と実施は見事であると関係方面から非常に高く評価され、現在の富山市の骨格を創り出しました。このように先人たちの街づくりにかけた情熱に思いを致すとき、当時の神通川の名残りで、中心市街地を流れるこの松川を、富山市近代化のシンボルという人もいます。

◆新たな街づくりに向けて
 昭和40年代以降、急速に進んだモータリゼーションにより、どの都市もクルマを前提にした街づくりを進めてきましたが、富山市も例外ではありません。しかし、少子高齢化や国・地方公共団体の財政難が進展し、さらには地方分権による地方都市同士の知恵比べが試されるこれからの時代においては、現在の富山市は、水害や戦災とは質が違う新たな危機に直面していると言えるかもしれません。
 そのため、市民一人ひとりが知恵と行動力を発揮し、自分たちの街は自分たちが責任を持って創っていくのだ、という気慨を共有し、出来ることから実施していくことが大切ではないでしょうか。そのことが、「富山市価値創造」に向けた基本認識であると思います。
 この件についても、家族や会社の同僚の方々と意見交換していただき、ご意見をお寄せください。(企画総務部まで)


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