「商工とやま」H15年1月号

日本海学の提唱について

〜環日本海地域を学際的に考える〜

富山県経営企画部次長 富山一成


はじめに

 東西冷戦構造の終焉に伴い、北東アジア・環日本海地域においては、いわゆる大規模プロジェクト主導型の開発志向の「環日本海経済圏」構想は、思うように進展していないのが現状ですが、友好提携関係などをベースとした自治体主導の交流の蓄積は著しく、環日本海地域にはさまざまな交流のネットワークが張り巡らされてきているといえます。
 一方で、21世紀に入った今日、約30年前に出されたローマクラブの「成長の限界」の予測は、ほぼ的を射ていたことが証明されました。化石燃料の枯渇、森林の破壊と砂漠化の進行など、地球環境の破壊の問題が深刻になり、国境を越えた海洋汚染、大気汚染に加え、地球温暖化や環境ホルモンの問題が発生し、地球における人間を含めた生物の生存可能性自体の危機が顕著になっています。この危機は世界の人口の約半分を占めるアジアにおいて最も深刻であると思われます。


逆さ地図からの発想に

 富山県が平成6年に作成したいわゆる「逆さ地図」(上記地図)というものがあります。これによれば日本海が大きな湖――狭い対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡、間宮海峡以外は陸地に囲まれた大きな湖のような日本海を巡って、大陸、朝鮮半島、日本列島が一体的なものに見えます。これからは、日本が大陸から切り離された島国という見方ではなく、地球において北東アジア、海を挟んだ環日本海という領域に属するということを視覚的にイメージすることができます。
 地球規模で生じている現在の危機に我々が対処していくには、日本が置かれている地球規模あるいはアジアという地域においてどのような役割と発展の可能性があるかを柔軟に考える必要があります。


「日本海学」の誕生

 21世紀の環日本海地域における潜在的な発展の可能性は大きいと思われます。中国の世界最大の人口、ロシアの天然資源、日本や韓国の先端的な技術力と資本力があるからです。一方で、急速な経済発展がもたらす先述したような危機が生じる可能性があります。
 富山県では、環日本海地域の21世紀における持続的発展を可能とするためには、環日本海地域が抱える問題をトータルに捉え直し、今後のあり方を探っていくことが重要であるとの認識の下、「日本海学」の確立を提唱しています。「日本海学」は、逆さ地図が提供する柔軟な発想に支えられて、環日本海交流の中央拠点づくりを推進する富山の地で産声をあげました。そのフレームワークは、伊藤俊太郎東大名誉教授を代表とする人文、社会、自然系の研究者からなる日本海学推進会議によって練っていただきました。


総合学としての「日本海学」

「日本海学」は、環日本海地域全体を、日本海を共有する一つのまとまりのある圏域として捉え、日本海に視座をおいて、過去、現在、未来にわたる環日本海地域の人間と自然のかかわり、地域間の人間と人間のかかわりを、「循環」と「共生」と「海」の視点を明確にしつつ、総合学として学際的に研究しようとするものです。


「環日本海地域」の縮図としての富山県に

 以下のように、環日本海地域のモデルともいえる森と水の豊かな富山県から「日本海学」を発信し、環日本海地域ひいては地球と共生できる新しい営みの方向を提示していきます。
(1)水深千メートルの深海から3千メートル級の北アルプスまで、高度差4千メートル以上に及ぶ山、川、海を結ぶ水の循環システム
(2)豊かな森をはじめとする自然の恵みを受けて多様な生物が生息する共生のシステム
(3)日本海固有水(深層水)と対馬暖流がおりなす豊穣の海である日本海のシステム


自然環境や交流、共生などを研究

 日本海学の具体的な研究分野は次のとおりです。

(1)環日本海の自然環境
 誕生から現在までの日本海および環日本海地域の自然環境変動の歴史を様々な手法を用いて解析し、変動の周期性から、近未来の変動予測を行います。
(2)環日本海地域の交流
 日本海を介した環日本海地域の交流を生み出した要因や交流の形態を、歴史を踏まえて地球規模の観点から、明らかにしていきます。
(3)環日本海の文化
 環日本海地域の民族が環日本海の自然環境や交流の影響を受けながら創り出し、受け継いできた生活文化の特色や日本海とのかかわりの中で生まれた海と森の思想や信仰を明らかにしていきます。
(4)環日本海の危機と共生
 半閉鎖海域である日本海の環境保全のための方策や国際協力,未来の環日本海地域の可能性を探り、人間と自然との共生、環日本海地域の共生を提示していきます。


日本海学の3つの視点

(1)循環 環日本海地域が周期性をもった地球全体の自然環境システムの中で存在しているという視点。
(2)共生 環日本海地域における人間と自然との共生、日本海を共有する地域間における人間と人間との共生の視点。
(3)日本海 環日本海地域において、日本海が果たしてきた役割、意義を問い直し、これからの日本海との関係を見つめる視点。


地球温暖化は水供給システムを崩す

 日本海学が浮き彫りにしつつある課題として、環日本海に視点を置く必要性の例として、「地球温暖化」「海洋研究」「環日本海の文化」の3点を挙げてみたいと思います。
 先ず、地球温暖化については、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が今後100年で最高5・8度の気温上昇がありうるとの報告を出していますが、日本にとって地球温暖化はどのような影響を持つのでしょうか。
 現在すでに北陸を中心に日本海側の積雪量の減少が顕著ですが、そもそも日本の雪は零下3度程度にまで暖められ、その過程で吸収した水分が雪となって日本海側の各地にもたらされているのです。春に徐々に融けていく積雪のいわゆる貯水機能によって、日本海側のみならず、利根川水系をはじめとした太平洋側の水が支えられています。温暖化は雪をもたらすいわば日本海に支えられた気象システムにいかなる影響をもたらすのか、温暖化によって仮に雪が降らなくなったら、日本の水供給システムが崩れることになります。
 このような観点から、ダイレクトに環日本海、北東アジアに着目した温暖化の研究は十分なされているとは言い難く、地球の危機が叫ばれる中で、我々のお膝元である環日本海、北東アジアに何が起きるかを追求する視点が求められています。


海洋深層水の循環メカニズムを解明

 2つ目の「海洋研究」のうち、最近、日本海についての研究は徐々に深まってきつつありますが、日本海の研究を進めることが、海洋大循環コンベアベルトと呼ばれる世界の大海洋循環を解明するために欠かせないとの指摘がなされています。とかく研究者の関心は太平洋側に向きがちであり、日本海側の海洋研究に関する国家レベルの拠点は置かれていないのが現状です。
 しかしながら、日本海のような閉鎖性海域における100年から300年といわれる深層水の循環メカニズム、そして、そこにおける海洋汚染の問題を明らかにできれば、現在、まだまだ解明が進んでいない地球規模の海水大循環メカニズムを類推できます。日本海に目を向けることがいかに重要であるか、を示す一例といえるのではないでしょうか。


森と水の環日本海文化

 3つ目の「環日本海の文化」については、環日本海、北東アジアの特徴として、豊かな森と水に代表される豊かな自然環境が残っている地域であるとの指摘がなされています。森が太古の昔から残っている環日本海は、森の文明というべきものを主張しうる地域ではないでしょうか。即ち、自然との関係において、一神教的ないわば神と一対一で対峠した人間が自然を克服し、地球を開拓していくというものではなく、むしろ自然を畏怖する、自然そのものが神であるといった自然観を太古の昔から備えてきました。そしていわば多神教的に、いろいろなものを受け入れる柔構造の精神構造を我々にもたらしてきた地域といえます。
 実はこの地域には、アイヌをはじめとして、極東ロシアのアムール川流域や中国雲南省などに多くの少数民族が存在しているのであり、少数民族の宝庫と呼べる地域です。
 これら自然を神として畏怖する自然観を共通とする少数民族が森においてすみ分けをしてきたのが環日本海、北東アジアだという見方が可能ではないでしょうか。21世紀の地球で文明の衝突を回避し、民族間の平和を可能とするとともに、地球環境と共生するライフスタイルを実現するための新たなパラダイムのヒントが環日本海には存在しているのです。


地球と共生できる営みがつくれるか

 日本海学は、循環と共生のシステムを豊かな森と水に恵まれた日本海をベースに、幅広くいろいろな角度から学際的に問題を考えようということを提唱しています。それは、現在の地球が抱える問題の根源が、産業革命以降の工業化を中心とした人間の営みそのものにあり、生物の生存可能性に危機を生じさせているということである以上、いかに人間の営みのパラダイムを循環と共生、そして海の視点に立って、変えることができるかが問題なのです。  行政の方も縦割りの問題がありますし、学問の分野も非常に細分化されていく方向にありますが、自然科学、人文科学、社会科学の観点からいわば人間の営みの総体を捉え直して、いかに新しい営み、地球と共生できる営みをつくれるのか、こういうことが今まさに求められます。日本海学はそれを考えるフレームワークを提示するものです。


21世紀の新たなパラダイム

 そして、日本海学が豊かな森と水に恵まれた環日本海から創出することを目指す21世紀の新たなパラダイムとは、以下のようなものであろうと考えています。
(1) 地域全体の危機を回避する観点から、持続的な発展を可能とする地域を将来世代へと継承していくこと
(2) 総合的に日本海の抱える問題を捉えることにより、共生の価値観への転換を図り、直線的な発展の文明観から循環的な文明観への転換を目指すこと
(3)「日本海学」をべースとする取り組みを行政、学術、民間など様々な立場から推進し、それぞれの地域が環日本海、北東アジアという枠組みにおいて、これまでの国家中心の考え方から地域中心の考え方への転換を図り、地域のアイデンティティーを確立することにより、真の地方分権によるパラダイムの転換を可能とすること


「日本海学の新世紀」を刊行

 平成13年3月に富山市で、同年12月には大阪市で、また昨年9月には、「森の文明」に夕―ゲットを当てた「日本海学シンポジウム」が東京で開催されました。また、日本海学の調査研究の成果を広く発信するため、定期刊行物「日本海学の新世紀」の第1集、第2集を発刊しており、現在「循環」をテーマとする第3集の編集を行っています。
 一昨年7月、昨年7月に開催された5カ国36自治体をメンバーとする北東アジア自治体連合の一般交流分科会において「日本海学」が紹介され、これを支援する方向で合意がなされました。
 また、「日本海学」のコンセプトをベースに環境保全に取り組む環日本海のNPO、NGOのネットワークも形成されつつあります。


終わりに

 今後、「日本海学」が提唱するフレームワークをべースとして、国内各地や北東アジア地域での行政、学術、民間など様々なレベルにおける普及や進展が期待されます。
 最後に、富山県ひいては環日本海地域全体の持続的発展と皆様方の益々のご健勝とご多幸を祈念して筆をおきたいと存じます。


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