会報「商工とやま」平成13年6月号

立山と富山(1)

立山と富山薬業

立山博物館 顧問  廣瀬 誠(元県立図書館館長)


 しまった!
 有頼は呆然と立ち尽くした。鷹狩の鷹が獲物をそれて遥か天空に遠ざかっていった。この鷹は父・秘蔵の白羽の鷹であった。その鷹を持ち出して鷹狩の真似事をしてみたところ、鷹は放逸してしまつたのだ。
 有頼少年は鷹の逃げた方角へひたすら追跡し続けた。常願寺川のほとりで目指す白鷹にめぐり合って喜んだが、傍らの薮から熊が襲いかかってきたため、また鷹は逃げた。怒り心頭に発した有頼は弓に矢をつがえ熊を射た。矢はハツシと熊の胸に突き立ち、熊は点々と血を落としながら山奥へ逃げてゆく。
 有頼は鷹を追い、熊を追って次第に山深く入り込んだが、ついに疲れ果てて倒れ伏した。精魂つきた有頼はロに触れた草を噛んだ。苦い草汁が喉に落ちてゆく。
 にわかに有頼は元気を回復し、起き上がると、また鷹・熊を求めて汗みどろの追跡を続け、最後に岩穴(玉殿の窟)で仏に遭遇。神仏が熊と鷹の姿になって、有頼を山中に導いたのだと知らされた。夢うつつのうちに「万人のため立山を開け」との仏の言葉を聴き、有頼は感泣して、立山を開くために生涯を捧げたという。
 これが立山開山縁起の荒筋であるが、険しい夜道で草を噛んで元気を回復したという、その草生坂の話は、まさに立山の薬草伝説であった。

 立山の最高地点三〇一五メートルのピークを大汝山という。この山名は日本紳話の「オオナムチノミコト」から来ている。「オオナムチ」は「スクナヒコナ」と二神一体となって広く人々のため医療医薬の術を施し「医の道」「薬の道」を切り開いたという。袖仏習合の思想から、この神は薬師如来とされた。立山連峰の南端には、薬師如来を祀る藻師岳が悠大な山容でそびえている。道教(大陸の民間信仰)とも習合して、この日本神話の神は神農様の名で敬われた。
 神農様と言えば、富山の売薬さんは必ずその画像彫像を床の間に飾り、一月八日の祭日には像の前に懸場帳を積み重ね、神酒・赤飯・鯛などをお供えして祀ったものであった。道教風に「シンノウハン」とも言い、仏教風に「ヤクシサン」とも称した。富山製薬会社の老舗「広貫堂」の玄関近くには、松村外次郎彫刻の大きな神農像が飾られていて見学者の度胆を抜く。
 神農像は画像であっても彫像であっても、必ず口に草をくわえた姿だ。まさに有頼が草生坂で草を噛んだ姿だ。立山と薬の神との緑はかくも深い。
 立山山麓の芦峅寺三十三妨の衆徒(妨さん)たちは「回檀・回国」と称して、毎年手分けして全国各地へ出かけ、立山信仰を説教宣布したが、その際、立山の薬草から製した霊薬を頒布した。その代金は翌年の回檀の時、使用した分の代金を受け取る仕組みであったという。この代金徴収方式は、富山売薬の「先用後利」のやり方そっくりだ。
 また、三十三の坊が、例えば、善道坊は三河、吉祥坊は江戸・武蔵、大仙坊は大和・河内といったぐあいに持ち場が決まっていたが、これも富山売売薬の行商のやり方と同じだ。多分、富山売薬は立山信仰の回檀から学び取って行商形態としたのであろう。
 称名川のほとりに大きな釜を幾つも並べ、谷間のヨモギを煮詰めて濃褐色の液を作っているのを見たと明治三十九年の紀行に記されているが、これが富山売薬の原料の一つであった。傷薬「アイス」は護摩の灰と百草で作った。反魂丹は草生坂(有頼が草を噛んだ地点)の薬草で作ったという。まさに、立山あっての富山売薬であった。


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