会報「商工とやま」平成14年6月号

立山と富山 10

立山に登った外国人たち

立山博物館 顧問  廣瀬  誠(元県立図書館館長)


 幕末の慶応3年(1867)佐渡から富山湾を横断して七尾へ向かうバジリスク号船上、英国書記官アーネスト・サトウ卿は立山連峰の壮観を印象深くながめて記録した。明治11年(1878)サトウは立山登頂を志し、信州側から室堂まで達したが、悪天候のため登頂をあきらめ、芦峅へ下山し、富山へ出た。
 翌12年には、やはり英国人のアトキンソンが人力車で北陸街道を東進し富山へ出たが、折あしく富山はコレラ騒ぎで、役人が町角に消毒剤を持って待機し、旅行者に吹きかけた。家々にはしめ縄を張って、コレラ禍におののいていたという。アトキンソンはほうほうの態で富山を通過、上滝から立山温泉を経て立山に登り、信州へ越えた。
 明治24年にはお雇いオランダ人のデレーケが富山県から委嘱された常願寺川治水計画策定のため立山温泉を経て立山頂上まで踏査したが、デレーケはその娘13歳のヤコバを同伴した。これは外国女性の立山初登頂であった。
 明治26年にはキリスト教宣教師英国のウエストンが信州から針木峠・立山温泉・松尾峠を経て立山頂上をきわめ、頂上で神主が外国人をも差別せずお神酒をついでくれたことを喜んだ。ウエストンは上滝に下山し、荷馬車・人力車を乗り継いで富山へ向かい、旅篭町の木屋旅館(当時富山で第一級の旅館)に投宿した。
 宿のお手伝いさんに登山で破れた靴下の補修をしてもらった。快活親切でどこか粗野なこのお手伝いさんのことをウエストンは名著『日本アルプス、登山と探検』に書いてロンドンで出版した。富山女性がはじめて世界に紹介されたのであった。
 ウエストンは大正3年には芦峅の雄山神社社務所に泊めてもらい、神主の心こもったもてなしを感謝した。そして絶頂の社殿を「王冠のように美しい」とほめた。宣教師ウエストンが日本神道に親近感を持っていたことは興味深い。


会報indexへ