会報「商工とやま」平成14年7月号

立山と富山 11

利長による舟橋創設

立山博物館 顧問  廣瀬  誠(元県立図書館館長)


 現在、富山市中央部から有沢橋・富山大橋・神通大橋・北大橋(桜谷大橋)などいくつもの近代的橋梁が神通川に架っているが、なお、増設が必要だという。
 ところが、江戸時代には神通川にはただ一つの橋もなかった。川幅広く、水量多く水勢激しいこの大河に架橋することは、技術上からも経費上からも困難であった。
 何よりも、富山城を守るため、天然の要害としてこの川をそのままにしておくのが藩にとって必要であったのだ。
 そのかわり64艘の舟を両岸の間に横に並べてクサリでつなぎ、舟の上に板を敷き、これを踏んで渡らせた。これを舟橋という。
 慶長10年(1605)頃、神通川に初めて舟橋を架けさせたのは大河ドラマ「利家とまつ」の間の嫡男・前田利長であった。利長というと、高岡城を築き、その城下町を開いた高岡の恩人として知られているが、高岡築城以前は富山城に住み、舟橋創設の大事業も成し遂げた。利長の高岡在城は約5年間、富山在城も通算約5年間であった。
 神通川舟橋は、舟橋として日本一の規模で、立山を背景とした景観は雄大をきわめ、文人も旅人もほめたたえた。舟橋を描いた絵はかならず背景に立山を描き、俳句でも「舟橋の秋やうしろに峰の雪」と詠み、立山と神通川舟橋はセットとなって富山を象徴していた。
 神通川は安野屋のあたりで大きく屈曲していて、そのため頻繁に大洪水を起こしたので、明治34年から大工事(馳越し工事)を施して河道をまっすぐに北流させた。
 旧河道のなごりが松川。松川べりの舟橋跡には石碑を常夜灯が建ち、舟橋の名はそのまま受け継がれ、その小橋には舟の形のが雅致あるデザインが施された。
 昔、舟橋のたもとの茶店の名物はアユのスシで、近代これがマスのスシとなった。松川周辺には今もマスズシの店が並び、創業の古さを誇るノレンをかけている。
 舟橋を創設した利長は立山信仰を厚く保護した。利長から芦峅寺・岩峅寺へ宛てた文書が多数残っている。また、利長の母・芳春院(まつ)と妻・玉泉院(永)とが連れ立って、立山女人信仰の聖地姥堂に参詣したことが芦峅寺の記録に残っている。玉泉院が立山へ寄進した石製こま犬は今も岩峅寺雄山神社の拝殿に安置されている。利長は家族もろとも立山に深く心を寄せていたのであった。
【補記】利長架設の舟橋は現在の電気ビル・桜橋のあたりであったが、その30余年後、富山藩主・前田利次が七軒町・愛宕町の間に架け換えた。これが現在の松川舟橋の地点である。


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