会報「商工とやま」平成14年8・9月号

立山と富山12

池大雅の雪見橋と三山完登

立山博物館 顧問  廣瀬  誠(元県立図書館館長)


 富山城の西は神通川、東はいたち川で守られていた。神通川には橋がなかったから、いたち川の大橋が城下町最大の橋で、しかも北陸道の交通上重要な橋で「表の橋」とも呼ばれ、橋詰には橋番所が設置されていた。近代、神通川の富山大橋の橋詰に交番を設置して警備していたのと同じだ。(この交番は現在撤去された)
 江戸時代の中期、このいたち川大橋に毎日足を運んでくる人があった。日本一の南画の大家・池大雅その人であった。大雅は藩医・野中玄室の家に逗留していて、大橋から望む雪の立山の絶景に感動し、何度も何度も橋をたずねたのだという。
 明治25年、この大橋を改築したとき、大雅の伝説によって「雪見橋」と命名した。単なる雪ではなく「立山の雪」なのだ。昭和50年、雪見橋は鉄筋コンクリートに改造され、古雅なデザインを施され、大雅の伝説も刻みこまれた。
 立山の壮観に感動した大雅は寛延2年(1749)と宝暦10年(1760)の2回、実際に立山に登頂した。2回目の登山のメモ『三岳記行』が京都国立博物館に残っていて、国の重要文化財に指定されている。道中の小遣いを明細に記録し「ひものや長左衛門」方に宿泊し、宿賃240文払ったとある。多分旅籠町の宿屋であろう。
 メモのあいまに立山や称名滝のスケッチもある。立山から下山して、15文の代金を払って西瓜を食べているのも愉快だ。
 おわら節に歌われたように、富士・白山・立山を日本三霊山と称し、この三山に次々に登ることが江戸時代に流行した。大雅は三霊山を完登し、みずから「三岳道者」と誇らしげに名のった。(現代「日本百名山」完登を志す人があるのと同じ心情だ)。
 尾張藩士某は文政6年(1822)、藩から40日の休暇をもらい、白山・立山・富士山の順で三山踏破し『三山めぐり』を書いた。(国立国会図書館に現存)
 この尾張藩士も「神通川、アユ名物なりとてスシにして売る」と書き、富山は「よき町並なり。売薬師の家多し」と書き、また町の家々にすべて「何町何丁目何屋誰」と書いた木の名札を出してあるのに感心している。高山彦九郎の安永4年(1775)の紀行にも「富山は家々に宿札を打ち、所の名を記しおく」と特筆し注目している。
 名札を門口に出すことは現代ではあたりまえのことになっているが、江戸時代では全国に類例なく、珍しいことだったのであろう。富山人の律儀さを示すものであろう。

【補記】「月、雪、花」は風雅のトリオである。雪見橋ができたので、これに連動して花見橋も月見橋もできた。立山の雪が発端であった。


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