会報「商工とやま」平成14年10月号

立山と富山(13)

立山のかぶさる町や

立山博物館 顧問  廣瀬  誠(元県立図書館館長)


 立山連峰の山々峰々は残雪をちりばめて夏空に突っ立ち、街の上におしかぶさるように迫ってくる。街の両側の老舗は昔ながらのノレンを下げて店は暗いほどだ。夏の烈日の下、あちらでもこちらでも、店先の道路に水を打っている。
 富山市の中町から東四十物町へかけての道(現・中央通り商店街)。この道に立ちどまり、立山を仰いで感嘆のため息をつく人があった。関東大震災で資産一切を焼失し、翌大正13年、報知新聞富山支局長となって富山へ赴任してきた前田忠吉その人であった。
 前田はホトトギス派の俳人。普羅と号し、高浜虚子門下四天王の一人に数えられた俳句の達人であった。
 普羅は立山のそそり立つ富山の風土にすっかり惚れ込み、昭和4年、新聞社を退き、富山永住を決意。富山市郊外奥田村(現・富山市)に普羅庵を新築してここに住み、俳誌『辛夷』を編集主宰し、富山県俳壇を指導した。
 中町通りから立山をあおぎ見たとき「立山のかぶさる町や」の句が普羅の口をついて出た。しかし下の句を何と据えるべきかを案じ悩み、「立山のかぶさる町の日除かな」ともしてみたが、2〜3ヵ月練りに練って

立山のかぶさる町や水を打つ

の名吟を成した。苦心に苦心を重ねながら「これは作った句ではない。発見した句だ」と普羅は思ったという。
 普羅は富山を中心として能登・飛騨の風土をも愛し、いくつもの紀行文と多くの名句を生み出した。
 普羅は昭和20年8月の富山大空襲で罹災し、津沢町(現・小矢部市)の弟子のもとに身を寄せたが、ここも翌21年の津沢大火で焼け出され、津沢郊外を転々とした。よくよく火難につきまとわれた普羅であった。
 富山永住の決意も、たび重なる災難のため挫折し、娘のいる東京に移転したが、持病悪化し、昭和29年、70歳で逝去した。
 普羅が雪国富山を歌いあげた代表句

 雪の夜や家をあふるる童声
 雪山に雪のふりゐる夕かな
 オリヲンの真下春立つ雪の宿

など5句を刻んだ句碑は富山城址に建つ。

 普羅の信条を力強く宣言した
「わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず」
の名文句を刻んだ碑も句碑に並び建つ。
 普羅は板画の大家・棟方志功と親交があったので、この文字は志功が銅板に彫り、それを石碑にはめ込んだ。
 ついでに志功の立山の句をあげておく。(志功は短歌も俳句も作った)

立山の北壁削る時雨かな 志功


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