会報「商工とやま」平成14年11月号 |
前田普羅の「立山のかぶさる町や水を打つ」の名句については前回述べた。普羅はホトトギス派であったが、ホトトギスの高浜虚子と対立したのは河東碧梧桐。碧も虚子もともに正岡子規の高弟であった。
碧(碧梧桐の略称)は明治42年立山に登り天狗平で初めて雪渓を踏み、
雪を渡りてまた薫風の草花踏む
の名吟を吐いた。
室堂にたどり着くと、童話家の大井冷光が当時富山日報記者として滞在取材していて碧を喜び迎えた。碧はこの句を揮毫して冷光に贈ったという。
碧は立山頂上では、
七十二峰半ば涼雲棚引ける
と壮大な句を吟じた。(立山の多くの峰々をシナ5岳の衡山七十二峰になぞらえて立山七十二峰という。松川に架かる七十二峰橋の名もこれに由来)。
碧は立山温泉、上滝を経て富山長柄町の鉱泉にくつろいだ。大正4年には碧は後立山を縦走し、型破りの句型で、
立山は手届く爪殺ぎの雪
と詠んだ。立山が手の届くように近々と見え、その荒々しい山肌に爪でひっ掻いたような雪渓が光っていたのだ。
碧の同志で、のち別の道を開いたのは大須賀乙字。富山県下には乙字系統の俳人も多数活躍した。金尾梅の門は「朝南風にたち山近き田打かな」とさわやかに詠み、また、
雪おろし剱岳はひとり夕焼くる
大雪の年、家々で屋根雪をおろしている。その背景に剱岳が赤々と夕焼けしている光景だ。また剱岳の夕明かりを詠んだ名句、
をやみなき雪を剱岳の夕あかり
雪降りしきりながら剱岳はほんのりと夕明かりして神秘的な姿を見せていたのだ。この句の碑は梅の門の生まれ故郷水橋の商工文化会館前に建つ。
大谷句仏(東本願寺門跡)はしばしば北陸路へ足を運び、
立山おろし猶吹く梅の蕾かな
とフエン現象下、激しく揺すぶられている梅のつぼみに目をとめた。句仏は乙字系『懸葵』の指導的存在であった。
山口花笠は「雄山晴れをよくいふ秋の祭かな」と秋晴の立山をながめ、大森桐明は立山から下山して富山いたち川のほとりで地獄盆を見て、
歌声の揃ふよりかなし地獄盆
と哀調こもる句をものした。
志田素琴(文学博士志田義秀)には「山涛や無月の空の底明かり」のような底力のこもった作があるが、敗戦後、戦災の富山で病み伏し、昭和21年、
立山に雪早くこの冷気なる
と痛切な思いを句に託して没した。
富山人にとって立山は生にも死にも切実にかかわる大きな存在であった。