会報「商工とやま」平成14年12月号

立山と富山(15)

剱の火事と立山曼陀羅

立山博物館 顧問  廣瀬 誠(元県立図書館館長)


 前田利長は慶長2年(1597)守山城から富山城に移り、佐々成政退去後の越中を支配したが、2年後、父・利家死去のため金沢へ戻った。
 しかし、慶長10年には藩主の座を弟の利常に譲り、新川郡22万石を隠居領として再度富山城に移り住んだ。神通川に大舟橋を架けたのはその時のことであった。
 慶長14年(1609)3月、いたち川べりの柄巻屋彦郎宅から出火、折りからの厳しい風のため火はたちまち富山城下町を焼き尽くし、富山城も焼け落ち、多数の侍女たちはむごたらしい焼死体となった。位  利長は辛うじて脱出し、千石町のただ1軒焼け残った家にひと休みしたあと魚津城へ退去した。
 フエン現象下のこの大火は立山の剱岳から吹きおろす猛風の威力によるものとされ「剱の火事」と呼ばれた。まさしく火の剱が荒れ狂ったのであった。
 利長は剱の火事の再来を恐れ、富山城再建を断念し、射水郡関野の地を選び、『詩経』のめでたい語によってこの地を高岡と名づけ、新城を築いてこれを居城とした。
 利長が富山を捨てたのは実に「剱の火事」のためであった。侍女たちの惨死体がいつまでも利長の目に灼きついていたという。
 立山の雷鳥は火難除けの霊力を持つといわれ、山ろく芦峅寺からは雷鳥の護符が発行され、剱の火事鎮圧の祈念が深々とこめられていた。
 富山町はいくたびも大火災があった。すべてフエン現象下で、各数千戸を焼失した。近代になっても明治32年の中野新町からの出火は4700戸を焼き、「熊安焼」と名づけて語り継がれた惨禍であった。
 大施設では昭和5年3月、県庁舎全焼、昭和8年3月には伝統産業製薬の大殿堂・広貫堂が焼失した。昭和14年5月には真宗王国の富山西別院が全焼した。
 最大の災害は昭和20年8月2日未明、米空軍の焼夷攻撃によるもの。猛炎は富山市の2万5千世帯を焼き尽くし、3千名近くの市民が焼死した。
 夜が明け、なおもごうごうと音を立てて燃えさかる富山市の上に立山連峰がおごそかに紫紺色の姿を見せ、空には月が残っていた。
 地獄の猛炎と聖なる山。そして日輪と月輪。それはまさに立山曼陀羅の世界。曼陀羅の図相そのものであった。


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