会報「商工とやま」平成15年1月号

立山と富山(16)


いたち川べりの栄誉と惨事

立山博物館 顧問  廣瀬  誠(元県立図書館館長)

 立山の水を集めた谷々は常願寺川となって富山平野を落走し、その分流はいたち川となって富山市街を貫流し、末は神通川にうちそそぐ。
 平成14年10月、このいたち川べり新川原町に大輪の菊が花開いた。田中耕一氏ノーベル賞受賞の快報である。田中氏はいたち川の瀬音を聞きつつ、立山からの水を飲んで育ち、近くの八人町小学校、神通川べりの芝園中学・富山中部高校に学んだ。まさに立山・いたち川・神通川にはぐくまれた富山びとであった。
 この快報は日本中を湧き立たせ、とくに富山県と富山市では郷土はじめてのノーベル賞として湧きに湧き、新川原町には祝いの字幕が張り渡され、町内あげて喜び祝った。
 単に栄誉たるにとどまらず、田中氏の率直誠実な人柄、飾り気のない言動、巧まざる自然のままのユーモア、終生エンジニアとして働きたいという働き者の気質は人々を大きく感動させた。立山の水で育った富山びとの美しい魂である。
 この新川原町には144年前の安政5年(1858)大惨事が突発した。2月26日未明、マグニチュード7前後の大地震が襲い、家も土蔵も大破倒壊した。暗夜の激震で富山城下町の武士も町人も動転し、死に物狂いに逃げまどった。
 新川原町の間口9尺(約3メートル)わらぶきの貧しい家では、亭主が酒に酔い潰れて寝込んでいた。妻は3歳の末の子を抱きかかえ、3人の子供をつれて屋外に避難した。しかし、夫は屋内には寝たままだ。妻はいそぎ家に引き返し、夫をゆさぶり起こしたが、そのとき隣の土蔵が崩れ落ち、貧家を押し潰し、夫婦ともむざんにも圧死した。妻がしっかり抱えていた3歳の子は助け出されたが、一瞬に両親を失った4人の子はその後どうなったのであろう。
 翌朝、富山藩士・野村宮内(29歳)は災害地を視察し、この潰れ家、死者の出た場所を検分し、つぶさにこの惨事を書き記し、「誠に憐れむべきことなり」と書きとめた。
 いたち川は赤黄の色に濁り、神通川は黄色を帯びて赤濁し大増水していたと野村は観察し記録している。
 この地震の2週間後の3月10日、ものすごい泥洪水(土石流)が押し寄せ、さらに2ヵ月後の4月26日、2回目の泥洪水が襲来し、いたち川の橋はことごとく流失し、流域の家屋も人畜も押し流され、惨怛たる大災害となった。大鳶崩れの名で後々まで語り伝えられた大震水災である。新川原町の4人の遺児はどうなったであろう。昔のことながら心が痛むのである。
 144年を隔てて、この恐るべき大災害と、日本中を湧き立たせた大快報。思いあわせてうたた感慨にたえないのである。

 


 

立山と富山(17)


立山の夕映えと歌人たち

立山博物館 顧問  廣瀬  誠(元県立図書館館長)

 雪の立山の清浄さ崇高さに目を見張って感動した与謝野寛(鉄幹)は、

立山の雪を仰ぎて声放つ この清きもの地の上にあり

と詠んだ。大正7年、富山中学教諭として赴任した川出麻須美は、富山の街角から豪壮華麗な立山連峰の夕映えをあおぎ見て、

夕日さす雪のつら山見驚き 街にたたずみき言も絶えつつ

と声も言葉も出ないほどの感激に浸り、これにつづけていま一首

天地の大き花かざしやゝやゝに あせゆきしはや夕暮のいろに

 天地の巨大な花カンザシのような立山の夕映えが次第次第に暮色にとけこんでゆくと、なごり惜しそうに歌った。
 歌人・川田順は昭和10年、富山県庁の小又幸井と同行して立山登山、雄山頂上にも一泊した。そのとき、夕日が沈んでゆくにつれて黒部峡谷のかなた後立山山脈に立山山脈の影が黒々と映り、刻々その影は後立山の山体を浸してゆく。その静寂壮大な光景を、

立山が後立山に影うつす 夕日のときの大きしづかさ

と歌った。立山登山詠の絶唱だ。また、佐良峠で大鷲の飛翔を目撃して、これも歌にした。これらの作54首は「立山行」と題して歌集『鷲』に収めて刊行され、帝国学士院賞を受けた。

 順はしばしば富山に来遊し、翁久允・藻谷銀河らと交遊した。銀河の家で「この家の老いたる母のもてなしは神通川の落鮎を焼く」などと詠んだ。銀河はのち富山大空襲のため戦災傷死を遂げた。落鮎を焼いて順をもてなした老母も焼死した。
 順と立山に同行した小又幸井は県出納長、のち富山市助役ともなった行政マンで県歌人連盟の会長。幸井も「朱にしみ朱にまはまる」立山の夕映えを詠み、その歌碑は呉羽山上に建つ。
 翁久允は富山中学在学中、舎監に反抗して事件を起こし、放校されたという異色の人物。渡平してアメリカで前人未踏の移民文学を創始。のち帰国して郷土研究誌『高志人』を創刊し、立山研究にも心を入れ「立山特集号」を出した。翁の胸像は城址公園の富山市立図書館の前庭に建つ。
 なお、近代の富山で、はじめて万葉調の歌を作ったのは小林可雅之。明治30年代、立山で「五の越に憩ひて立てば頂ゆ吹きくる風にこの世遠そきぬ」、地獄谷で「わらぢの底にぬくもり覚ゆ」と清新な実感を歌い上げた。


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