会報「商工とやま」平成15年4月号 |
富山藩13代の藩主中、最も傑出した文化人は第10代の前田利保であった。利保は歌人としても能楽・謠曲家としても越中第一の人であったが、また「草癖」とあだ名されたほど草木好きで本草学(薬用に視点を置いた植物学・博物学)に打ち込み、藩主の座を子に譲ってからは、一層その「草癖」が増長した。
下ノ茗温泉を基地として野山を歩きまわり、実地に植物を調査した。嘉永6年(1853)には従臣をひきつれて西白木峰(金剛堂山)に踏み登った。
この山は富山藩・加賀藩・飛騨三領の境目にそびえ、標高1、638メートル。富山領としての最高峰であった。
3月の残雪を踏み、ヤブを掻き分けての苦しい登高行に従臣たちがひるむと、「自分が先頭に突き進むぞ。ついて来い」と皆を叱咤激励したという。時に利保53歳。「草癖」を超えて「山癖」の岳人殿様であった。
しかし利保は立山に登った形跡がない。これは立山が加賀藩領だったためで、藩主・前藩主の身分で他領の山に登ることは憚られたのであろう。宗藩と支藩、本家と分家の間柄とはいえ、他藩はやはり他藩であった。利保は従臣を立山に登らせ、植物を採集させ、これによって研究したのであろう。
利保が編集した『本草通串証図』は越中各地の植物を美麗な色刷り版画にした、いわば原色植物図鑑。版画の下絵は木村立嶽・山下守胤ら藩の一流絵師が彩筆を揮い、美術的にも実に見事で、科学的にも正確精細な大型本。江戸時代第一の豪華本であろう。刊行されたのは5巻。続巻は火災のため下絵も版木も焼失して刊行できなかったという。5巻に収められた草本は187種。このうち13種が立山産。植物名は難しい漢字で記されているが、図を見れば現代名はわかる。例えば立山頂上付近産ではイワキキョウ・チシマキキョウウが色鮮やかに描かれている。
昭和44年、昭和天皇御来県のおり、廣貫堂の一室にこの証図を展示してお目にかけたが、天皇は目を細くしてうなづきうなづき一枚一枚御覧になったという。
利保の従臣(西白木峰にも随行した)藤沢光周は嘉永7年『奇草小図』を刊行した。小型本ながら日本最初の高山植物図鑑であろう。3冊にわたって127枚の図を収め、白黒刷り版画の上に絵筆で彩色を施した手作りの本。京都大学名誉教授・上野益三博士はこの『奇草小図』に注目して論文を執筆、学会に発表した。
藤沢光周の墓は富山市中野新町の日蓮宗乗光寺の墓地に建つ。乗光寺境内の名井「星の井」は利保の命名らしいから主従の「草癖・山癖」がこの地に静かに安らいでいるわけだ。