会報「商工とやま」平成13年7月号

立山と富山(2)

売薬起源伝説と富山の近代化

立山博物館 顧問  廣瀬 誠(元県立図書館館長)


 立山開山伝説はさまざまな形で語り伝えられたが、富山売薬の起源についても諸説あった。二代富山藩主・前田正甫が岡山の万代常閑(浄閑)から製薬法を学び、反魂丹を常備し、これが、江戸城中で急病の某大名を救ったのが始まりだという話も有名だ。
 しかし、別説では、正甫の家臣・日野小兵衛は立山を深く信仰し、いくたびも立山に登拝したが、山上で急病が起こり苦しんだ時、薬を与えられてたちまち回復した。その薬が反魂丹で、与えた人が万代常閑であったという。
 さらに別説では、ずっと古い南北朝のころ、砺波地方に住んでいた武士・松井源長が母の重病を治すため、立山に登って祈り、立山の神から薬を伝授されて下山帰宅してみると、母はすでに死んでいたが、伝授された薬を死母のロ中に押し込んだところ、母は蘇生したという。死者が魂をとり戻して生き返ったから反魂丹という。反魂丹は立山神の神授の霊薬であったわけだ。富山売薬の起源には立山が深くかかわっていたのであった。

 越中富山の伝統産業「製薬・売薬」は富山藩の財政を大きく支えた。この薬業によつて蓄積された財力と、そこから生まれた人材が富山県の近代化にも大きく役立った。
 富山県最初の水力発電所は明治三十二年大久保町塩(現大沢野町)の大久保発電所で、これは大久保用水の水を神通川に落とし、約二十メートルの落差を利用したもので、当初の発竜力は百五十キロワットであった。この電力によつて富山市の家々に初めて電灯がつき、人々を大喜びさせた。この水力発電を構想し、苦心惨但の末作り上げたのが密田良吉(のち兵蔵と改名)青年。そして、全力を投入してこの事業をおし進めたのは初代・金岡又左衛門。密田は富山売築の旧家の出。金岡は薬種業の名門。つまり、富山の薬業の底力が成し遂げた偉業であった。
 北陸銀行の初代頭取・十五代中田清丘衛は、売薬の密田家に生まれ、薬業の名門・茶木屋中田家に入籍した人物で、その長男・勇吉(十六代清兵衛)も同銀行頭取、そして日本山岳会富山支部長としても大活躍した。四男・中田幸吉は富山県知事となったが、立山の保護には深く意を注いだ。県の政界・実業界の背後には紛れもなく薬業の伝統的な力「反魂丹の力」があった。その薬業は立山と密接不可分であったことをあらためて興味深く思うのである。


会報indexへ