会報「商工とやま」平成15年5月号
立山と富山(20)

立山と文人たち

立山博物館 顧問 廣瀬誠氏(元県立図書館館長)


 芭蕉は『奥の細道』の旅で元禄2年(1689)越中路を通過したが、それより7年も早く天和3年(1683)俳人・大淀三千風は仙台を出発して日本全国を旅した。
 黒部川愛本の奇橋を褒め称え、魚津の俳友・岸本凉水の家で旅装を登山服装に改め、立山に登った。その紀行文を「立山路往」と題して、後『日本行脚文集』に収めて刊行した。本格的な立山登山記として最初のものであった。
 下山後、三千風は越中に二十余日も滞在し、俳諧の付け合いを楽しんだ。(芭蕉が2泊3日でさっさと越中を通り抜け、富山も素通りしたのとは対照的だ)
 三千風は富山では中田随有の家に泊って交歓した。中田随有は富山の名門・茶木屋の人。随有の子孫・中田栄太郎は、富山中部高校校長・国会議員など勤め、山好きで日本山岳会員としても活躍した。
 栄太郎は晩年、祖先随有のゆかりで三千風研究を志したが、業半ばにして火災のため自宅も研究原稿も焼失し、東京に移住して死去。気の毒な晩年であった。
 滑稽本『東海道中膝栗毛』の作者・十返舎一九は全国旅行記ふうの『金の草鞋』も書いた。越中の巻は文政11年(1828)刊。
 神通川舟橋のたもとの茶店で名物アユのスシを食べたが、あまりにも美味で、みんなホッペタを落とし、あたりにはホッペタが散乱していたと、一九らしいおどけた文を書いている。
 そのあと立山に登った。立山では死んだ人に逢えるというので、死んだ妻に再会しようと思って登った男があった。すると妻の亡霊が出て来て「あの世で別の人と仲よく暮らしている。あなたにはもう用がない」と断られてガッカリしたとか、酒屋の主人の亡霊が現れて「未払いの酒代を返せ」と言われて困ったとか、こっけいな作り話をいくつも織り込んだ。
 富山藩士で広徳館教授といういかめしい肩書の大塚敬業は天保11年(1860)立山に登り、格調高い漢文で『登山立山記』を書いた。刊行された単行本の立山登山記はこれが最初。小冊ながら装幀に心を配った美しい出版物。信仰登山とはちがった清純な登山の喜びが行間に溢れ、山岳文学史上に異彩を放つ。
 剱岳の威容に感動し、風が吹くと雲霧動き、剱の峰々も動くように見えたと動的に活写した。
 別山頂上の硯が池の冷たい水で、いり麦粉(おちらし)を掻いて食べ、たちまち元気回復したと書いているが、近代も立山に登るときオチラシを携行し、山の冷水で掻いて食べる慣例であったことが思いあわされて愉快だ。


▼会報indexへ