会報「商工とやま」平成15年7月号

立山と富山(22)

立山を熱愛した科学者

立山博物館 顧問  廣瀬  誠(元県立図書館館長)


 汽車や電車に乗るとき、必ず東向き窓ぎわの「立山の見える席」を選んで坐る人があった。その人は石井逸太郎博士。立山こそ石井のレーゾンデートル(存在理由)であった。
 石井は熊本県の生まれ。東京帝国大学を卒業して大正14年はじめて赴任したのが旧制富山高校(現・富山大学)。石井は富山市永楽町に住居を構え、蓮町の高校への通勤の往き帰り、立山連峰の雄大な姿を見ても見ても飽かなかったという。
 石井の恩師・山崎直方博士は、立山雄山直下の窪みが氷蝕地形であることを発見した人だ。山崎博士の高弟として石井は、氷河地形の研究に打ち込み、雄山のカールを発見者の名によって山崎圏谷と名づけ、氷河地形として日本最初の国の天然記念物指定に持ち込んだ。
 昭和22年、昭和天皇北陸巡幸のおり、「富山県の地理」について進講申し上げたが、その原稿作製には精魂傾け、何度も何度も書き直したという。
 昭和30年8月、立山剱沢で氷河地形調査中、雪渓の裂け目から滝に転落、壮烈な死を遂げた。66歳であった。
 進野久五郎は山形県の生まれ。富山県に赴任し、富山中部高校長など勤め、生物学会会長として植物、とくに立山の高山植物研究に全力をささげた。昭和33年、昭和天皇を縄ケ池や立山へ案内申し上げたが、両地で水芭蕉の清楚な姿に天皇は大喜びされたという。
 日本一の植物学者・牧野富太郎博士を立山に案内し、浄土山の長之助草や立山温泉の立山萩を示し、牧野を感激させたのも進野であった。進野は昭和59年没、83歳であった。
 植木忠夫は九州別府の生まれ。昭和3年、はじめて赴任したのが石井と同じ旧制富山高校。富山駅頭から早春の立山の雄大な姿に驚嘆。本籍を富山に移し、永住を決意したのは、何よりも立山のためであった。立山の雷鳥を県鳥にするよう知事に働きかけたのも植木であった。
 富山大学退職後、「立山連峰の自然を守る会」を結成し、マイカーの立山乗り入れ禁止のため街頭に立ち、終生立山の自然を守ることに全力を尽くした。平成2年没、91歳であった。
 地学の石井、植物の進野、動物の植木、3人とも他県の出身でありながら、立山に魂を打ち込み、富山に骨を埋めたのであった。


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