会報「商工とやま」平成15年8・9月号

立山と富山(23) 最終回

立山を貫く光

   立山博物館 顧問  廣瀬  誠(元県立図書館館長)


 富山県と隣県との間には、鉄道がごう音高く走り、高速道路には車が連続疾走している。西の石川県、東の新潟県、そして南の山国・岐阜県へも高山線の列車が神通峡を縫って走っている。
 ところが、長野県へだけは列車も通わず、高速道路も架設されず、山また山、谷また谷によって厳しく切断されたままだ。
 戦国の昔、佐々成政はこの高山峡谷を踏み越え、いわゆるザラザラ越えを敢行して、後世まで勇名をとどろかせた。その越中(富山県)と信州信濃(長野県)を結ぶザラザラ越えの細道は木こり狩人などが利用してきた程度であった。
 明治になって金沢の士族と信州の大庄屋とが協力して開通社を創立し、事務所を富山の旅籠町に置き、この山道を広げ、有料道路「越信新道」を開削したが、冬ごとに荒廃激しく、労力・経費がかさみ、わずか数年で放棄された。
 立山のふもと芦峅寺に生まれた佐伯宗義は、立山を神山として崇敬しつつ、しかしながら、この大山脈が国土分断硬化の地理的障壁であると指摘し、この連峰を突き破ることを構想した。
 佐伯は昭和5年すでに富山電気鉄道(株)を創立し、18年県下の官公私営鉄道・バスを統合して富山地方鉄道(株)を設立していたが、27年には立山開発鉄道(株)を創設して立山にケーブルカー・登山バスをとりつけ、その第一歩を踏み出し、39年には長野県側からの関西電力の大町トンネル開通・黒四ダム建設に呼応して立山黒部貫光(株)を設立した。単なる物見遊山の「観光」でなく、佐伯哲学の時空を貫く「貫光」の新造語を社名として44年立山黒部アルペンルートを全線開通させ、富山・長野両県をしっかと結んだのであった。
 宗義は立山を「人間再生の道場、創造力を培う道場」と位置づけ、アルペンルート沿線には当初から一枚の商業看板も立てさせず、立山の清浄神厳を守り抜いた。そこに宗義の精神が強く打ち出されている。1300年の昔、少年・佐伯有頼が立山を開いたという。その子孫の一人・佐伯宗義は言わば「第二の立山開山」を成し遂げたのであった。
 富山を起点とする富山地方鉄道は人々を満載して立山に向かう。人々は霊山立山の壮大さに感激した。常夏にも雪をちりばめた岩山が近々と押し迫って来て、その「神ながら」の霊光はすべての人の胸を射抜いた。
 しかし光には影が伴う。年間百万を超える入山者のため、また車の排気ガスなどのため、自然破壊もまた大きな問題となってきた。その光と影を交錯させながら、立山を県民の心の結び目の神山として敬仰し、対処してゆくのがわれらに与えられた課題である。

 立山開山1300年を記念し、廣瀬誠先生にご寄稿いただきました「立山と富山」は今回が最終回です(平成13年6月号より掲載)。
 廣瀬先生には立山にまつわる歴史や文学、産業など、幅広い観点からご寄稿いただき、私たちの生活に深く関わっている立山について再認識することができました。この立山を私たち富山県民の誇り(=価値資源)として、全国にPRしていくため、また、もっと立山について知っていただくため、日頃から家族や職場の仲間と語り合っていただきたいと思います。
 永い間どうも有り難うございました。


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