会報「商工とやま」平成13年8・9月号

立山と富山(3)

立山の万葉歌碑

立山博物館 顧問 廣瀬 誠(元県立図書館々長)

 日本最古の歌集「万葉集」に神山と歌われた山は数多くあるが、香具山、三輪山などいずれも緑滴る山で、香具山は青香具山といわれたほどであった。その神山の中で夏も雪をいただき天高くそそり立つ山は、太平洋側で富士、日本海側で立山の両山だけであった。

 ヨーロッパでは古代、雪と岩のアルプスを悪魔悪竜の住みかとして恐れ嫌ったという。ところが日本ではその雪と岩の高山美に感動し、神そのものと畏敬したのであった。

 越中国守であった大伴家持は天平19年(747)4月27日「立山の賦」と題して長歌短歌を詠み、これを「万葉集」に収めたが、これこそ立山が文献に記された最初のもの、立山を歌った最古の文学であった。(当時はタテヤマと発音せず、タチヤマと呼んだ)。その作製年どころか月日までこんなにも明確に記録されているということは、富士にも白山にもその他どの名山にも全くないことで、われら富山県人として欣快至極である。筆まめな大伴家持なればこそである。(山部赤人・高橋虫麿の「不尽(富士)山歌」は名作だが、作製の年は不明である)

 だから、呉羽山上に立山開山佐伯有頼少年像を建立した時、家持詠作の日付にちなんで4月27日に除幕式を挙行したのであった。

 「立山の賦」の長歌に添えた短歌の一首が、有名な

  立山に降りおける雪を常夏に見れどもあかず神からならし

 「立山に降り積もっている真っ白な雪を夏のまっさかりに見ても見ても見あきぬすばらしさ。これは立山の神性によるものであろう。神の山だからこそこんなにも崇高、清浄、雄大なのであろう」と賛嘆したのであった。

 江戸時代この歌の碑が荒川堤(富山市新庄)に建てられていた。万葉歌碑として全国でも屈指の古いものであったが、惜しくも安政5年(1858)大鳶崩れの泥洪水で押し流されてしまった。残された拓本に基づいて昭和51年復元され、新庄全福寺の境内に再建された。中央に「たち山」と深く大きく刻まれた3文字があざやかだ。

 呉羽山上にも昭和43年、この家持の歌碑が建てられた。揮毫は書家の青柳石城、題字は県知事の吉田実、裏銘は富山市長の湊栄吉。樹叢の濃い縁の間に静かに建つ。新旧二基の万葉歌碑に立山と富山市の深いゆかりをうれしくゆかしく思うのである。



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