会報「商工とやま」平成13年10月号

立山と富山(4)

大伴家持と池主

立山博物館 顧問 廣瀬 誠(元県立図書館々長)


 大伴家持が天平十九年(七四七年)四月二十七日「立山の賦」長歌一首短歌二首を作ったのに唱和して、大伴池主は翌四月二十八日「敬和立山の賦」これも長歌一首短歌二首から成る大作を詠み上げた。
 池主は越中国掾(じょう)。家持は守(かみ)で今でいえば県知事級。これに対して副知事級が介(すけ)、総務部長級が掾という職制であった。同じ大伴姓だから一族一門の間柄。家持は都からはるばる越中へ赴任したが、そこに一族で旧知の池主がいたことは心強かったであろう。
 池主は漢文学にも明るい歌人であった。政治的には、抬頭する藤原仲麻呂の新勢力に対抗して「神代」以来の名門大伴を守り、日本古来の文化伝統を守り抜こうとする同志であった。家持・池主は上司・部下の関係を超えて同志として歌友だちとして深く結ばれていた。
 歌人としては家持は第一級で、池主はその名を知る人も少ないが、「立山賦」に関するかぎり池主の力作は家持以上だ。家持は概括的に大づかみに歌ったが、池主は具体的にいきいきと歌い上げた。富山平野から立山を望むと朝日が昇るとき逆光線に煙らって遠ざかったように見える。その感じを池主は長歌の冒頭で「朝日さし、そがひに見ゆる」と見事に表現した。つづいて神のままの貴い名を持った立山と、その神性を畏敬し、「白雲の千重をおし分け、天そそり高き立山」と雲表にそそり立つ雄大さを歌いたたえた。この重層的な歌の構成は、まさに立山連峰の重疂たる山勢がそのまま乗り移ったようで力強い。
 そして白妙に雪をいただき、岩がゴツゴツとして神厳であると絶賛し、山岳悠久の感に浸り、「こごしかも岩の神さび、たまきはる畿世経にけむ」の名句を吐いた。さらに峰高く谷深く激落する谷川に雲霧の搖動するさまを歌い、万代に言い伝えたいと歌い収めた。
 家持が越中守の任を終えて帰京した六年後、橘奈良麿は藤原仲麻呂の打倒のクーデターを計画し、池主はこれに加担したが、事前に発覚し、奈良麿は刑死。池主も姿を消した。この事件後、大伴氏は急速に衰えてゆく。
 直情的に行動に走った親友池主の末路に、家持は激しく心を痛め、これを生涯心の重荷としたであろう。
 富山市の「立山あおぐ特等席」から観望する立山連峰の山ひだ山ひだに、家持・池主の思いも深々と刻み込まれているのである。


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