会報「商工とやま」平成13年11月号

立山と富山(5)

茶木屋の娘と石地蔵

 立山博物館 顧問 廣瀬 誠(元県立図書館々長)


 「万葉集」では立山は雄大・崇高・清浄な神山と手放しで讃美されたが、平安時代には立山讃歌などただの一首もなく、地獄の山、亡者の山と恐れられた。(「今昔物語」の説話の一例)

 越中国庁の下役人、書生(しょしょう)の妻が病死した。3人の子が嘆き悲しみ「立山に登ると死者にめぐり逢えるという。ぜひ死んだ母に逢いたい」と語りあい、案内の僧に導かれて立山地獄におもむいた。もうもうと噴煙を噴き上げる一つの穴から「太郎、太郎」と呼ぶ声。驚いて「どなた?」とたずねると、「親の声を忘れるものがあるか。私だ、母だ」という。驚いてかけ寄ると、地獄の責め苦のたえがたい苦痛を訴え、「法華経千部を書き写して供養してくれ、それ以外に助かる道はない」という。3人は泣く泣く下山して父に告げると「千部は不可能だが、できるだけやろう」と全力を尽くして写経にかかった。そのことが国司に知れ、「よしわしが力になってやる」と国庁の役人中志望者に写経させ、加賀・能登・越前などの国々にも協力を求め、ついに千部の写経を成し遂げ、法要を営んだ。夢に亡き妻が現れ、「お蔭様で地獄の苦を免れました」とお礼を述べたという。国庁から立山へ行くには、富山を過ぎ常願寺川を溯ったことであろう。ただし、富山は当時町ではなく、原野だったのであろう。「今昔物語」にはこのような地獄説話がいくつも載せられている。

 地元にも伝説があった。元禄のころ富山町屈指の町人茶木屋伝兵衛の1人娘が若死にした。その後、立山に登った男が地獄谷にうずくまっている女を見つけ、驚いて見ると、先般死んだ茶木屋の娘であった。娘は「私が立山地獄におちたことを父に伝えてください。これを証拠にしてください」と着物の片袖をちぎって渡した。

 男は下山すると早速、茶木屋を訪ねた。伝兵衛は「あんな気だてのよい娘が地獄におちるはずがない」と怒ったが、証拠の片袖を見て顔色を変え、形見の着物を取り出してみると片袖がちぎれていて、男持参の袖とぴったり合った。伝兵衛は娘の墜地獄を悟り、大坂の石工に地蔵を刻ませ、いたち川のほとりに建てて供養した。

 その後、富山町人の葬列は必ずこの石地蔵を拝んで通った。この地蔵を拝むだけで墜地獄を免れると信じられたという。昭和20年8月の大空襲で焼け損ずるまでこの地蔵は人々の信仰を集めていたのであった。


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