平成14年2・3月号

立山と富山(7)

早百合姫と黒百合

立山博物館 顧問 廣瀬 誠(元県立図書館々長)


 神通川磯部の堤、桜並木の間に一本の榎が亭々とそびえ立ち、葉を茂らせている。佐々成政が愛妾・早百合を惨殺したという伝説にいろどられた地だ。この木の下で「サユリ、サユリ」と呼ぶと早百合亡霊の火玉が出現すると恐れられた(磯部の桜は大正二年の植樹。それまで桜並木はなく、一本榎だけだったから、よけい恐ろしかったであろう)。

 天正十二年(一五八四)冬、佐々成政はひそかに富山城を出て立山のざらざら越えを決行し、浜松城に徳川家康をたずね、秀吉打倒の強談判をした。

 その留守中、愛妾・早百合が成政の近習の侍と密通したとのウワサが立ち、激怒した成政は早百合の黒髪をつかんで引きずり走り、この榎の枝に逆さ吊りにして、あんこう斬りめった斬りの惨刑に処した。相手は言うまでもなく、早百合の一族も皆殺しにされたという(一族は呉服村の住民)。

 早百合は断末魔の苦しい声で「私は無実です。私の恨みで立山に黒百合が咲いたら佐々は滅びますぞ」とのろって息絶えた。

 やがて立山に黒ユリが咲き、成政はこの珍花を秀吉の正室・おね(北政所)に献上したが、この花がもとでおねと側室・淀との間がこじれ、やがて成政は切腹させられたという。

 この話は『絵本太閤記』に脚色して面白く書き立てられ、古川柳にも、

立山に百合が咲いたで笹が枯れ

と歌われた。

 しかし、これは実話ではなく、佐々のあと越中領主となった前田の太鼓もち達が、評判のよい前領主を暴君愚将に仕立てあげるための作り話だ。作家・遠藤和子さんはそのことを丹念に調べあげて証明された。

 悪いウワサが立つと、無実とはわかっていても処刑するのが当時の武家の法制であった。成政は止むをえず涙をのんで早百合を罰した。惨殺ではなく、「許してくれ早百合」と成政は深夜一人男泣きに泣いたことであろう。


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