会報「商工とやま」平成14年5月号

立山と富山 9

大泉の立山道標

立山博物館 顧問  廣瀬 誠(元県立図書館館長)


 立山登拝の道はいく筋もあったが、富山から佐々成政ゆかりのいたち川沿いに東南に向かうルートも重要であった。通坊(勝興寺支坊)が基点であった(明治になってこの地点に神道宣布のための中教院が建ち、通坊前も中教院前と名を改めた。中教院には鐘樓のような形をした「立山遙拝所」もあった)。

 いたち川を溯ると大泉の茶屋があって登山者はここで一休みした。富山町の中央部西町からは大田口通りの道が南に延びているが、この道も立山登山者の陸続として歩いた道で、大田口・中野口を経て大泉の茶屋で通坊前から来た道と出あう。大泉の茶屋は立山道のカナメであった(茶屋は上野酒屋となって今も健在だ)。

 この茶屋(酒屋)の脇に石の道標が建っている。大きく「右立山道」小さく「左本江湯道」、そして「天保11年」「尾州名古屋杉屋佐助、杉屋佐太郎」「世話人富山熊本屋忠蔵」と刻まれている。言い伝えによると、名古屋の杉屋佐助は立山登山の道中で死去し、その子佐太郎が亡父供養のため、名古屋へ売薬行商に来ていた熊本屋に依頼して建立したものという。

 同じような杉屋父子連名の道標は大山町善名の田のふちにもあったが、善名の道標は十年ほど前盗難に罹り紛失した。(大泉の道標は根っこをコンクリートで固めてあるので安全であろう)

 なお、関連して思うのは、富山の某料亭の玄関先に「右立山道、左大岩道」と刻んだ石標が建っている。これは上市町付近の道の辻にあった道標に違いないが、何者かが盗み出し、料亭に売ったのであろう。貴重な立山ゆかりの文化財の運命に心が痛むのである。

 それにしても、登山中不慮の死を遂げた亡父供養のための佐太郎の道標建立は心打つ。亡父だけでなく実に多くの登山者に役立ったのである。岩峅寺村はずれの弥勒塚も登山中の死者を弔ったものという。立山をめざして挫折した人々をあらためて偲ぶのである。


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