
佐々成政肖像

富山売薬の祖と伝わる富山藩二代藩主、前田正甫の像(富山城址公園)

飛越交流に果たした歴史的役割が評価され、国登録有形文化財に指定されている笹津橋
はじめに治水砂防ありき
戦乱に荒れる越中に赴いた戦国武将・佐々成政は、国内を平定して民衆の安寧に腐心したばかりか、治水にも心を砕き、常願寺川に越中で初めての川筋堤防「佐々堤」を築造したほか、いたち川の改修を行ったことで知られる。急流河川が数多く縦断する富山では、近代になっても為政者は治水に精力を注ぎ続ける。富山県が明治16年に石川県から分県して以来も、県政の最重要課題が治水事業であったことは、明治期の県予算に占める土木費が45%に達していたことからも明らかだ。治水・砂防事業は現代もなお、県民の生命と財産を守るために、野で、山で続けられている。売薬の精神、全国を席巻
加賀藩支配の約300年に花開いた地場産業は、この地に平和と安心をもたらした成政によって、その舞台が整えられたといえる。とりわけ、富山藩二代藩主、前田正甫を祖とする越中売薬は、藩の保護政策を受けて他国へ行商に出かけ、「越中富山の薬売り」として全国に市場を拡大していった。「先用後利」(何種類もの薬を得意先に預けておき、使ってもらった薬の代金は後で受け取る)という独特の配置販売システムは、万一のために種類の揃った薬箱を常備しておきたい庶民に大変重宝がられた。この商法は、遠い片田舎から出かけて行った行商人が津々浦々に、そして海外にまでも受け入れられていく大きな原動力となった。江戸末期には、全国各地を行商に回る売薬商人は約2,000人を超えるほどの活況を呈した。
当時、領外からの現金収入がある藩はほとんどなかった。だが富山藩では、幕末ごろには売薬商人が毎年約20万両の「外貨」を、わずか十万石の藩内に持ち帰っていたという。こうして蓄積された越中売薬業者の資本が、明治になって近代産業を育てることになる。
売薬業の発展は、薬の包装や行商用の道具、「おまけ」(売薬進物)、包装材などのさまざまな関連産業を派生させて裾野を広げ、「薬都富山」を形成していったのである。

佐々成政による富山城の改修と城下町の整備によって富山の礎が築かれた

佐々成政「鉄砲隊」さらさら峠越え(現代版)の武者行列隊



