〈高岡市高峰公園〉 富山県高岡市御馬出町51

高峰譲吉 生誕の地

高岡市高峰公園

高岡市御馬出町おんまだしまちにある、譲吉の生家跡。
昭和28年、高峰譲吉博士生誕100周年を記念し、高峰譲吉博士顕彰会が設立。生家跡を高峰公園として整備し、記念式典で「高峰譲吉博士を讃える歌」(作曲:室崎琴月)が発表されました。

昭和30年には博士の胸像を建立し、除幕式は日本人初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹博士を迎えて行われました。胸像の台座の後ろには、湯川博士が記した撰文せんぶん(文章)が刻まれています。

高峰公園では、毎年11月3日の博士の誕生日に、生誕祭として献花式や高峰科学賞表彰式が行われています。

湯川秀樹博士の撰文

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(提供:高峰譲吉博士ゆかりの会)

旧高峰家(譲吉ゆかりの家)

金沢市黒門前緑地

旧石屋小路(現金沢市武蔵町)から1872年に父精一が新築移転した家の一部(離れ)です。1964年に解体され、旧江戸村に移築されましたが、2001年に、元々建物のあった梅本町(現大手町)に近いこの地に再移築されたものです。その際、敷地に建っていた旧検事正官舎の一部と渡り廊下でつないでいます。

藩校「明倫堂」のへんがく

明倫堂では、朱子学を中心として和学・漢学・漢医学・算術などの多彩な科目を学ぶことができました。扁額は、現在は金沢大学資料館に収蔵されています。

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エピソード

01

少年時代編

江戸時代(1854) - 明治時代(1869)

譲吉0〜15歳

私は、1854年9月13日(新暦11月3日)に、越中国高岡で生まれました。
日本にペリーが訪れた翌年です。江戸時代が終わろうとしていました。
私の父は、化学に優れ、後に加賀藩御典医ごてんい となった高峰精一。母の幸子ゆきこの実家「鶴来屋つるぎや 」は、高岡で酒造業を営んでいました。

生まれた翌年に、父が加賀藩の学問所「壮猶館そうゆうかん」への勤務を命じられ、加賀国金沢城下の石屋小路(現武蔵町)へ移住しました。
7歳から加賀藩藩校の「明倫堂めいりんどう」で学び、11歳の時、留学生に選ばれて3年間長崎へ行きました。

長崎の「致遠館ちえんかん」には、オランダ人宣教師のグイド・フルベッキ先生が英語教師として迎えられていて、大隈重信(総理大臣、早稲田大学創設者)にも英語を学びました。同窓生には、小村寿太郎(外務大臣)などがいます。
その後は、1868年、京都の兵学塾、1869年、大阪医学校、大阪舎密せいみ学校、七尾語学所にて学びます。
時代は明治に変わり、私は15歳になっていました。